「戦後日本の記憶と記録」(全307回)27“衆院選、初の女性参政権 予想上回る善戦” 1946年4月10日、戦後初の衆院選が実施され、日本に39人の女性議員が誕生した。同年1月のフランスの31人を上回り世界最多。低調とみられていた女性の投票率も総じて高かった。世界でもまだ女性参政権が一般的でなかった時代だ。 女性参政権構想は終戦後早々浮上した。45年9月25日の毎日新聞に「女性も選挙権を」の見出し。戦前からの婦人運動の流れを引き継ぐ「戦後対策婦人委員会」が政府への要求を申し合わせたと報じた。女性参政権や有権者年齢引き下げなどを盛り込んだ改正選挙法は衆院解散前日の同12月17日に公布された。  その2日後の毎日新聞は「新人の進出は量的には多いが戦いは依然として旧人に有利に展開するのではあるまいか」と分析する。ある保守政党の控室で「5、6人の議員さんがのんきそうに煙草(たばこ)をふかし」、リンゴをかじりながら取材に応じる「ノンビリ」した雰囲気を報じた。 2月9日、公職追放令に基づき、立候補禁止の範囲が明示され、風向きが変わった。前職議員の8割以上が立候補を許されず、新人にチャンスが来た。議員だった夫の名代で立候補を決めた女性も多い。 毎日新聞は、妻の立候補に「夫の許可は要せず」との国会質疑(45年12月7日)、「赤ん坊をおぶって投票」は可能との内務省見解(同12月9日)、東京都内の模擬投票で「幅をきかす片仮名の投票」(46年3月27日)など、初めてならではの戸惑いや熱気を伝えた。 一方、投票日前の紙面は「婦人の関心は低い」との見方が専ら。46年3月29日の「本社特派員座談会 総選挙の実相を語る」で各地の特派員が「(女性の投票率は)3割もあればいいほう」「7割、8割は棄権するだろう」と予想した。「全国的に見て婦人候補の当選率は」の問いに「ほとんど駄目でしょう」と答えるやりとりもあった。 予想は外れた。投票率は72%で男性79%、女性67%。立候補者に対する当選者の割合は男性16%、女性49%。毎日新聞は4月13日の社説で「選挙の蓋(ふた)をあけてみれば予想外という現象の氾濫」と驚き、有識者の「切実な生活苦をなめ尽くした母親の叫びが彼女らをゴールに送り込んだ」との談話を載せた。 当選した女性議員は多くが戦争で家族を亡くしたり、空襲で焼け出されたりしていた。その体験から戦争反対を訴え、食糧事情や労働環境の改善など生活に根ざした声を国会で伝えた。

 女性候補善戦の背景には、1人の有権者が複数の候補に投票できる「大選挙区連記制」もあったとされる。社会党や共産党の躍進を許したため保守層が中選挙区制を提案し、一度しか行われなかった。47年3月の選挙法改正の審議で国務大臣は「(大選挙区連記制では)男を書いて1人余っている所に女も一つ出してみようかという風で書いた者が多い。(中選挙区単記制は)婦人代議士に相当不利」と答弁している。実際、翌4月の衆院選で議席を維持できたのは12人にとどまり、新人3人を加え女性議員は15人となった。 以後、女性議員数は低迷を続け、衆院で最初の39人を上回るのに、43人当選の2005年まで約60年を要した。列国議会同盟(IPU)によると、2月1日現在、衆院の女性議員比率(9・5%)は世界156位に甘んじている。