「新西国観音三十三所巡り」神呪寺(かんのうじ)は兵庫県西宮市甲山山麓にある仏教寺院。山号は甲山。真言宗御室派別格本山。甲山大師とも呼ばれ、本尊は如倫観音像。新西国観音二一番札所。地元では「お大師さん」とも呼ばれている。寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。 それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王天長四年(827年)に橘氏公三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺にて、丹後国余佐郡香河村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩(こはぎ)という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い。『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために天長五年(828年)にひそかに宮中を抜け、頂法寺六角堂で修業をしてその後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現西宮神社)から廣田神社、その神奈備山、甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。天長七年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長八年(831年)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。 この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。 空海は海人系の氏族の出身だったといわれる。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、元亨釈書18巻にも登場するこの神とは六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。 戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂江戸時代の再建。当初の寺領は淳和天皇より、150町歩の寄進があり、合わせて250町歩となったが、現在は境内地の20町歩となった