『江戸泰平の群像』(全385回)124・稲葉 正休(いなば まさやす)(1640~1684)は、江戸時代前期の旗本大名美濃青野藩主。旗本・稲葉正吉の長男。大老堀田正俊従甥に当たる。美濃と縁の深い稲葉氏の一族である。明暦2年(1656)、父が男色の事で家臣に刺殺され、その遺領を継いで美濃青野において5,000石を領した。延宝2年(1674)、小姓組番頭となって石見に叙任された。延宝5年(1677)に書院番頭、その後将軍近習を経て天和2年(1682)、若年寄に就任し、加増されて青野藩1万2,000石を領した。天和3年(1683)、水害に悩まされていた淀川に赴き、河村瑞賢の随伴による視察を行い「淀川治水策」をまとめる。治水費用として4万の費用を計上するが、不審に感じた堀田正俊が別途、随行した瑞賢に問いただした所「半額の2万両でも可能」との意見を得た事から、正休は淀川の治水事業の任から外される事となる。貞享元年(1684年)、江戸城中で堀田正俊を刺殺した(即死ではなく、正俊は医師の手当を受けた後、重体のまま自邸に運ばれ息を引き取る)。正休自身も同席していた老中大久保忠朝阿部正武戸田忠昌らにメッタ斬りにされて殺され、稲葉家は改易処分となった。享年45。正俊を暗殺した理由については不明であるが、前年の淀川の治水工事の役目から外された件もあり、恨みによるものとも言われた。正俊暗殺に当たって正休は、高名な刀鍛冶に数本の刀を特注し、試し斬りの末に一番出来のよいものを差して登城、邪魔が入りにくいよう御用部屋の入り口まで正俊を呼び出して一突きで殺した。後の赤穂事件に際して「このような手本があるのに浅野長矩吉良義央を仕留め損ねたのは武士として不覚悟も甚だしい」という批評があり、当時の落首にもうたわれているという。