『浪速史跡めぐり』興徳寺・JR玉造駅から西へ、真田山の上町台地の丘陵の一角に寺院の多い中古風なたたずまい山門をくぐると、本堂の前にはきれいに整備された庭園に植木に木々が多い繁り大きな鯉ゆったりと泳いでいる。都会の雑踏の道を少し隔てただけで静寂があるものだ。創建が聖徳太子といわれ、法円坂の「薬師院」として創建されたが、その後行基菩薩によって再建された機内四十九ケ寺の一つである。行基菩薩が原野を拓かんとして、この地で薬師如来を発掘して、別に木造を刻みこれを本尊とした。この辺りの寺は大坂夏の陣に戦火に会い、夏の陣以後、松平忠明が大坂の町の発展と城の防衛線の再整備のために、市内に分散されていた寺院を、小橋村、天満村、東西高津村の三カ所に集め、小橋村に寺号を「興徳寺」と改められて再建されたと言う。戦前までは大阪市内のお大師参りで賑わいを見せていたが、その後太平洋戦争で本堂を焼失し空襲で山門以外諸堂を焼失した。現在の堂塔は、檀家の浄財で今日の堂塔になったそうである。境内には北に大きな金銅の観音立像が祀られ、所狭しと諸仏がお堂に安置されている。