「戦後日本の記憶と記録」(全307回)9“戦後の闇市”一般的に日本の「闇市」として有名なものは、第二次世界大戦太平洋戦争後の連合国軍占領下の日本混乱期に成立した商業形態である。なおこの種の市場は終戦直後は「闇市」と蔑称で呼ばれたが、その後国民生活に必要であるとの認識から「ヤミ市」と表現されるようになった。終戦直後の日本では、兵役からの復員外地からの引揚げなどで都市人口が増加したが、輸入が途絶えた状態で政府統制物資がほぼ底を突き、物価統制令下での配給制度は麻痺状態に陥っていた。爆撃による交通網・流通網の損壊により農村部の抱える食料も流通が鈍化し、都市部居住する人びとが欲する食料や物資は圧倒的に不足していた。食料難は深刻を極め1945年(昭和20年)の東京上野駅付近での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。1947年(昭和22年)には法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官山口良忠が餓死するという事件も起きている。ほとんど全ての食料を統制物資とした食管制度のもとでは、配給以外に食料を入手することは即ち違法行為だったのである。ユニセフや占領軍の主体となったアメリカによる援助もあったものの、不足を埋めるには到底至らず、配給の遅配が相次ぐ事態となっていた。このため人びとは満員列車に乗って農村へと買出しに出かけ、サツマイモのヤミ物資を背負って帰ったが、依然都市部の人びとの食事は雑炊が続き、米よこせ運動が各地で勃発した。敗戦後間もない1945年(昭和20年)11月1日に「餓死対策国民大会」が日比谷公園で開催されている。翌年の1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデーには、25万人の労働者が参加して「飯米獲得人民大会」が開催された。

このような状況の下で、戦時中の強制疎開空襲による焼跡などの空地でヤミ市がはじまった。敗戦の4日後の1945年(昭和20年)8月20日、新宿駅東口に開店した露天市がヤミ市の第1号となった。その後雨後のタケノコのように各地にヤミ市ができていく。東京都北区を例にすると、赤羽・十条・王子など強制疎開で空地になっていた駅前広場にヤミ市が立った。最初はざる野菜を載せ、石油缶に入れて売ったりし、物々交換のようなものだった。そのうちみかん箱を置き雨戸を載せて台にして、生活用品市のようになった。さらに一間四方くらいの店になり、うどんおでんカストリ焼酎などを売るようになり、そうしていったん市ができると、どこからともなくさまざまな品物があつまってきた。食物屋が大半であったが、日本軍や連合軍からの放出品、或いは残飯なども上手に繰り回しされ、それらが飛ぶように売れた。しかし食糧管理法はまだ生きていたので、配給以外で入手した食料は当局によって没収された。

空地の出店は的屋(テキヤ)などの組織が地割を取り仕切るようになり、ゴザよしず張りなどでお互いの境界を区切り、地面に品物を並べる店や、台上に品物を並べる店のほか、食事や酒を提供する移動式の屋台も存在するようになった。やがて焼け残った廃材などでバラック建ての店が建設された。ただし空地でも所有者がいる土地に建物を建てるのは不法占拠であり、大阪府警察本部の警察部長は、この不法占拠者には外国人(第三国人)が多く、中には地主に立ち退きを要求されると暴力行為に及ぶものや、法外な立ち退き料を請求したものもあったと証言している。こうした外国人暴力団の関与が治安を悪化させてしまい、その後の在日外国人に対する一定の見方を醸成してしまったとする指摘もある。当時銃器を持たなかった警官隊は武装した外国人暴力団に対し無力であった。一方、1946年(昭和21年)8月1日に大阪府警察本部よって行なわれた大阪闇市封鎖などは当を得ず、却って不足に喘ぐ庶民を苦しめる結果となった。※(この「「戦後日本の記憶と記録」は私自身の刊行した『戦後日本の群像』『戦後GHQの検証』を参考にして執筆されています。」)