『京都古社寺探訪』藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は、京都府京都市伏見区に鎮座する神社である。旧社格府社5月5に行われる駈馬神事や、菖蒲節句の発祥地として名高い。6月から7月にかけて紫陽花苑が公開され、3,500株にもおよぶ紫陽花が見もの。祭神・本殿(中座)に主祭神である素盞嗚命と、別雷命日本武命応神天皇神功皇后武内宿禰仁徳天皇を祀り、東殿(東座)に天武天皇と崇道尽敬皇帝(舎人親王)を、西殿(西座)に崇道天皇(早良親王)と伊予親王井上内親王を祀る。本殿の祭神は神功皇后による三韓征伐にまつわる神、東殿に周辺地域一帯の「地主神」と考えられる神、西殿に怨霊や厄神を宥めるための御霊神が祭られているまた当社は藤森天王社ともいわれ、御霊信仰に基づく神社でもあるが、これは祭神の早良親王が延暦4年(785)の藤原種継暗殺事件に連座し、廃太子され早世したことによる。祭神が多いのは、元々深草郷にあった真幡寸(まはたき)神社、藤尾社、塚本社などの諸社を中世に合祀したためと考えられている。創建年代や祭神には諸説ある。社伝では、神功皇后摂政3年(203)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。当初の祭神は、現在本殿に祀られる7座であった。藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地であったが、その地に稲荷神が祀られることになったため当社は現在地に遷座したと言われている。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現・城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。本殿は東・中・西殿の三座から成る。東殿は、天平宝字3年(759)に藤尾の地に崇道尽敬皇帝(舎人親王)を祀る神社として創建されたもので、元は藤尾社と称していた。永享10年(1438)に当社に合祀された。中殿は正徳2年(1712)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所であり、現存する賢所としては最も古い。西殿は、延暦19年(800)に早良親王を祀る神社として塚本の地に創建され、文明2年(1470)に当社に合祀された。早良親王は生前当社を崇敬していた。陸奥で反乱が起こったとき、早良親王は征討将軍となり当社に詣でて戦勝を祈願した。その出陣の日が5月5で、これが現在の駆馬神事の元である。本殿の左右後方にそれぞれ末社の八幡宮、大将軍社の社殿があるが、永享10年(1438)の建築当時はは本殿と並んで一列に建っていたと見られている。吉田兼倶の「藤森社縁起」、あるいは『拾遺都名所図会』巻五[6]等によると、光仁天皇天応元年(781)、に異国の蒙古が日本へ攻め寄せ、早良親王が大将軍となり率いた軍勢がこれを退けた[2][6]が、その際当社に祈願したことより当社に弓兵政所の異名がつき、また境内にある蒙古塚は、この時の蒙古軍の大将の首を埋めたものと伝わる。拝殿のそばに「むらさきの 雲とぞよそに 見えつるは 木高き藤の 森にぞありける」という待宵の小侍従作の歌碑があり、古にの叢林があったと思われる。