『歴史の時々変遷』(全361回)344“天狗党の乱”
「天狗党の乱」元治元年(1864)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の変ともいう。文政12年(1829)9月、重病に伏していた水戸藩第8代藩主・徳川斉脩(とくがわ なりのぶ)は、後継者を公にしていなかった。そんな中、江戸家老・榊原照昌らは、斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)は後継者として不適当であるから、代わりに斉脩正室・峰姫の弟でもある第11代将軍徳川家斉の二十一男・清水恒之丞(のちの紀州藩主徳川斉彊)を迎えるべきだと主張し、藩内門閥層の大多数も、財政破綻状態にあった水戸藩へ幕府からの援助が下されることを期待してこの案に賛成した。これに対して、同年10月1日、藤田東湖・会沢正志斎ら藩内少壮の士は、血統の近さから敬三郎を藩主として立てるべきと主張して、徒党を組んで江戸へ越訴した。10月4日に斉脩が没し、敬三郎を後継者にという斉脩の遺書が示された。この遺書を掲げて8日に敬三郎が斉脩の養子となり、17日に幕府から斉昭の家督相続承認を得ることに成功した。こうして斉昭が水戸藩第9代藩主となると、擁初立に関わった藤田・会沢らが登用され、斉昭による藩政改革の担い手となった。この斉昭擁立に動いた集団は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、天狗党と呼ばれるようになった。これに対して斉昭は、弘化2年(1845)10月に老中阿部正弘に対し、江戸では高慢な者を「天狗」と言うが、水戸では義気があり、国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言うのだと主張している。とはいえ、天狗党という集団はその内部においても盛んに党争と集合離散を繰り返しており、それぞれの時期においてその編成に大きな差異が見られる。江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、激派・鎮派は領内の尊攘派士民を下総小金(千葉県松戸市)に大量動員し、藩主慶篤に圧力をかけ交代したばかりの諸生党の重役の排斥を認めさせ[13]、水戸藩邸を再び掌握した。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還を図ることとなった[14]。そこで、在府の慶篤の名代として支藩・宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなり、執政・榊原新左衛門(鎮派)らとともに8月4日に江戸を出発した。これを大発勢という。これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がった。大発勢は8月10日に水戸城下に至るが、その中に尊攘派が多数含まれているのを知った市川らは、自派の失脚を恐れ、戦備を整えて一行の入城を拒絶した。耕雲斎らは、天狗党が度重なる兇行によって深く民衆の恨みを買い、そのため反撃に遭って大損害を被ったことをふまえ、好意的に迎え入れる町に対しては放火・略奪・殺戮を禁じるなどの軍規を定めた。道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった[16]。天狗党は11月1日に大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。田沼意尊率いる幕府軍本隊[17]は、天狗党の太平洋側への侵入を防ぐため東海道を西進する一方、天狗党の進路上に位置する諸藩に対して天狗党追討令を発した。ところがこれらの藩はそのほとんどが小藩だったこともあって、天狗党が通過して行くのを傍観したばかりか、密かに天狗党と交渉して城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を差し出した藩も出る有様で、結局追討令に従い天狗党を攻撃したのは高崎藩などごく一部の藩のみであった。11月16日、上州下仁田において、天狗党は追撃して来た高崎藩兵200人と交戦した。激戦の末、天狗党死者4人、高崎藩兵は死者36人を出して敗走した(下仁田戦争)。また、11月20日には信州諏訪湖近くの和田峠において高島藩・松本藩兵と交戦し、双方とも10人前後の死者を出したが天狗党が勝利した(和田峠の戦い)。天狗党一行は伊那谷から木曾谷へ抜ける東山道を進み美濃の鵜沼宿(岐阜県各務原市)付近まで到達するが、彦根藩・大垣藩・桑名藩・尾張藩・犬山藩などの兵が街道の封鎖を開始したため、天狗党は中山道を外れ北方に迂回して京都へ向って進軍を続けた。天狗党が頼みの綱とした一橋慶喜であったが、自ら朝廷に願い出て加賀藩・会津藩・桑名藩の4000人の兵を従えて彼らの討伐に向った。揖斐宿(岐阜県揖斐川町)に至った天狗党は琵琶湖畔を通って京都に至る事は不可能と判断し、更に北上し蠅帽子峠(岐阜県本巣市・福井県大野市)を越えて越前に入り、大きく迂回して京都を目指すルートを選んだ。越前の諸藩のうち、藩主が国許に不在であった大野藩は関東の諸藩と同様に天狗党をやり過ごす方針を採ったが、鯖江藩主間部詮道と福井藩の府中城主本多副元は天狗党を殲滅する方針を固め、兵を発して自領に通じる峠を厳重に封鎖し、天狗党が敦賀方面へ進路を変更するとそのまま追撃に入った。12月11日、天狗党一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)に至る。天狗党は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断した。前方を封鎖していた加賀藩の監軍・永原甚七郎に嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次ぎを乞うたものの、幕府軍はこれを斥け、17日までに降伏しなければ総攻撃を開始すると通告した。山国兵部らは「降伏」では体面を損なうとして反対したが、総攻撃当日の12月17日(1865年1月14日)、払暁とともに動き出した鯖江・府中の兵が後方から殺到すると、ついに加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧された。永原は投降した天狗党員を諸寺院に収容し、かなりの厚遇をもって処した。しかし、田沼意尊率いる幕府軍が敦賀に到着すると状況は一変する。関東において天狗党がもたらした惨禍を目の当たりにしていた意尊らはこの光景に激怒し、加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員を鰊倉の中に放り込んで厳重に監禁し、小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えることとした。腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に大人数が押し込められたために衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科された。
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