「一ノ宮巡り」播磨国一ノ宮・伊和神社・祭神大己貴神・庫県宍粟市一宮町須行名407・式内社・旧国弊中社・兵庫県は宍粟市ある播磨国一宮伊和神社の主祭神は大己貴神である。播磨の神と大己貴神とは同一神と見なせる。配神に少彦名神・下照姫神で主祭神の大己貴神は出雲国から来たと言う。「伊和」の語源については「神酒」から或いは「於和」の国造りが終わったと言う意味からと言われている。創建については欽明天皇の御世の創建と伝える。『延喜式』には「伊和坐大名持魂神社」とあり、正暦二年(991)正一位の神階に叙せられている。播磨国一ノ宮とされ、幾度か火災に見舞われ焼失の度に朝廷に国司、守護職赤松氏、近隣の藩主などの庇護を受けて再建された。また地元の豪族に伊和恒郷に大己貴神から「我れ祀れ」の神託が有った。恒郷は西の野で一夜に木々が群生し。大きな白鶴が二羽が石の上に北向きに眠っていたのを見て、そこに北向きの社殿を造営した。鶴石は本殿裏に祀られた。
★この社の祭神は大己貴神、配神は少彦名神・下照姫神は『古事記』ではこの様に記されている。
大己貴神は諸国を平定国造りしていた所、波間に天の船に乗り、蛾の皮の被服を着て近づく小さな神がいた。名も聞いても答えず、諸神に聞いても分らず、ヒキガエルが案山子に聞けば知っている。そこで案山子に聞くと「神産巣日神の御子の少名毗古那神(古事記)と分かった」そこで大己貴神が神産巣日神に質すと、確かに自分の子で手からこぼれ落ちた子であると言う。
そこで大己貴神と兄弟の契りを結んで国を造り固めよと言った。そこで少彦名神も一緒に国造りを助けたが、少彦名神は途中で常世の世界に行ってしまった。そこで大己貴神は最後まで国造りを終えた時に天津神の天孫から国を譲るように求められた。
国譲りに応じて条件として「我が住むところに、皇孫の住処のように太く深い柱で、千木が空高くまで届くような立派な宮殿を造り頂ければ、そこにお隠れしよう」これに従い出雲の「多芸志の浜」に天之御舎を造った。
★祭神の大己貴命は『古事記』に出てくる