「浪速史跡巡り」釣り鐘屋敷跡・大阪市中央区に釣鐘町という町があるが、この町の名前の由来となった釣鐘が現存している。1634年(寛永11年)、3代将軍徳川家光が上洛の折、二条城から淀に至り、船で大坂城へ入った。この時、三郷惣年寄などが相率いて将軍を今市(現旭区今市町)に迎え、酒樽・鰹節を献じ、祝賀の意を表したところ、悉く城中に召され、各々紋服三領を賜り、加えて大坂町中の地子銀(現在で言うところの固定資産税)の永代赦免が達せられた。 当時三郷の地子銀数は1ヶ年178貫934匁で、この巨額の地子銀を永代に免除された郷民はその恩恵に感謝したことは言うまででもない。後世子孫までこの恩恵を忘れないためにて、惣年寄達が協議した結果、釣鐘をつくり町中に時を知らせることとした。 鐘は同年9月に完成。その銘文は谷町筋寺町西側(現谷町9丁目)の大仙寺の龍巌和尚が書き、開眼供養は一心寺の在牟上人が導師となって執り行われた。 この釣鐘屋敷の鐘は2時間おきの1日12回撞かれたが、その鐘の音は近松門左衛門の『曽根崎心中』の最後の道行の場面でも書かれている。 鐘楼は江戸時代を通じて、4度の火災(万治、宝永、享保、天保)に見舞われたが、これをくぐり抜けたが、1870年(明治3年)に撤去され、釣鐘はその後、幾度か場所を移動し、1926年(大正15年)以降は大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘」として保存されていた。1985年(昭和60年)地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷地へ戻され、現在に至っ(大阪再発見より)
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