『歴史の時々変遷』(全361回)336“桜田門外の変”
「桜田門外の変」正字体:櫻田門外の變、正仮名遣:さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860)に江戸城桜田門外で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。この襲撃者らを「(桜田)十八烈士」と呼ぶこともある。またこの事件自体を「桜田事変」や、「桜田義挙」と呼んだ例がある。安政5年(1858)4月、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、将軍継嗣問題と修好通商条約の締結という二つの課題に直面していた。まず、病弱で世子が見込めない第13代将軍・徳川家定の後継をめぐって、南紀派(会津藩主・松平容保や高松藩主・松平頼胤ら、溜間詰の大名を中心とした一派)と一橋派(水戸前藩主・徳川斉昭や福井藩主・松平春嶽ら、大広間や大廊下の大名を中心とした一派)が争った将軍継嗣問題があった。数年前の嘉永6年(1853)に起きていた黒船来航など対外危機[5]を慮った一橋派は、英明で知られた当時21歳の一橋慶喜を推挙していたが、それに対し南紀派は、家定の従弟で当時12歳の紀州藩主・徳川慶福を推し、結局慶福が養子と決められた。これは血縁を重視する慣例と現将軍・家定の内意に沿い、直弼を大老に推した南紀派を満足させたが、「時節柄、次期将軍は年長の人が望ましい」とした朝廷の意に反するものであった。直弼による安政の大獄は本格的になり、密勅降下に関わった鵜飼吉左衛門父子らが拘禁された。また、弘道館内の鹿島神社神官・斎藤監物も神官3名をひそかに西国へ向かわせ、諸国神官職の者達へその写しを回覧させた[13]。安政6年8月、水戸藩関係者は重い処分を受け、安島帯刀は切腹、水戸藩士・茅根伊予之介、同鵜飼吉左衛門は死罪、同鵜飼幸吉は獄門等になった。また、前水戸藩主・徳川斉昭は国許の水戸に永蟄居処分を受けた。さらに、幕政から『戊午の密勅』の朝廷への返還を求められ、主君の処分解除のためには、水戸藩は幕府へ恭順を示さねばならなくなった。しかし、断固返納反対の立場をとる藩士らの勢いも止まず、藩内の膠着状態となった。幕府は自ら返還を促す勅命の草案を作って天皇の同意を得る方針に転換し、安政6年12月、水戸藩主・慶篤に勅書返納の朝旨を伝達した。水戸藩庁では斉昭・慶篤間での協議により返納論が主流となりつつあったが、密勅返納阻止の運動は却って激化した。返納反対派は密かに密勅が運ばれることを警戒し、藩境の長岡[14]で集まり水戸街道を封鎖して返納に抵抗した(長岡屯集)。安政7年(1860)1月15日、幕閣は江戸城へ登った水戸藩主・徳川慶篤に対し、重ねて密勅の返納を催促、同年1月25日を期限とし、もし遅延したら違勅の罪として同藩を改易する可能性まで述べた。しかし、幕政是正の為には大老井伊直弼の排除が不可欠と考えた尊王攘夷急進派の水戸藩士達は、単独でも実行する方針を固め、直弼暗殺計画の準備を進めていた。安政6年(1859)より、水戸藩士・高橋多一郎、金子孫二郎を中心として、井伊直弼襲撃と薩摩藩兵上京の計画が図られていた。薩摩屋敷では金子孫二郎らと有村兄弟が談義を重ねた。まず彼らは水戸・薩摩とも大量参加者は見込めないことを再確認し、当初予定の襲撃期日を延期した。標的は、候補に挙げていた直弼側近の老中で磐城平藩主・安藤信正や同じ溜間詰の高松藩主・松平頼胤を外し、直弼一人に絞り込んだ。同安政7年3月1日、金子孫二郎は日本橋西河岸の山崎屋に、関鉄之介や斎藤監物、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、薩摩藩士・有村雄助、そして薩摩藩との連絡役の水戸藩士・木村権之衛門を呼んだ上で、挙行は3月3日とし、襲撃は登城中の直弼を桜田門外で襲うべし、と最終決断を下した。この他に金子は、武鑑を携え四、五人を一組とし相互連携すべし、先ず先供を討つべし、駕籠脇が狼狽する隙に大老を討つべし、大老の首級を挙げるべし、負傷者は切腹か閣老へ自訴すべし、その他の者ただちに薩摩藩との次の義挙計画の約束通り京へ赴くべしと定めた[。又、できるだけ生き延びて次の仕事の機会を待つ、という申し合わせも行った。更にこの時、襲撃の役割と斬り込み隊の配置も定めた。金子は全体統率、関は現場指揮、彼らは斬り込み隊へ加わらず皆の監督役とし、水戸藩士・岡部三十郎と畑弥平は結末を見届けたのち、品川の川崎屋に待機した金子へ結果報告する事とした。斬り込み隊の配置は、直弼邸へ向かって右翼即ち江戸城の堀に面した側へ神官・海後嵯磯之介や水戸藩士・広岡子之次郎、森山繁之介、稲田重蔵、佐野竹之介、大関和七郎。左翼即ち松平親良邸側へ水戸藩士・山口辰之介、杉山弥一郎、増子金八、黒沢忠三郎、薩摩藩士・有村次左衛門とした。後衛に神官・鯉淵要人、水戸藩士・蓮田一五郎、広木松之介を配し、前衛には水戸藩士・森五六郎を当てた。稲田重蔵は当初、金子に京への同行を命じられたが、本人の希望により固辞して襲撃参加した。また神官・斎藤監物は襲撃に直接参加せず、事変後に一同を率い、連名の『斬奸趣意書』を然るべき藩邸へ提出する役目とされた。同年3月2日の夕刻、品川宿・相模屋にて訣別の酒宴が催された。この夜列席したのは襲撃参加者18名を含む19名。面々が一堂に会するのはこれが最初で、しかも最後にもなった。期日が遂に明日と決まった中、面々は改めて成功を誓い、酒盃を交わした。また、藩に累が及ばないよう、この夜明けまでに、藩士・神官の身分に応じ、除籍願を届けた。安政7年3月3日(1860)の早朝、水戸浪士の一行は東海道品川宿の旅籠を出発した。一行は東海道(現在の国道15号)に沿って進み、愛宕神社(港区愛宕)で待ち合わせた上で、桜田門外へ向かった。この日は明け方から季節外れの雪模様でもあり、一時は大きな牡丹雪が盛んに降り、辺りは真っ白になった。しかし、斬り合いの時刻には雨混じりの小雪で、やがて薄日が射した。襲撃者ら一行が現地へ着いた頃、既に沿道には江戸町民らが武鑑片手に、登城していく大名行列を見物していた。この日いわゆる雛祭りのため、在府の諸侯は祝賀へ総登城することになっていた。襲撃者たちは、武鑑を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待った。午前8時、登城を告げる太皷が江戸城中から響き、それを合図に諸侯が行列をなし桜田門をくぐって行った。尾張藩の行列が見物客らの目の前を過ぎた午前9時頃、彦根藩邸上屋敷の門が開き、直弼の行列は門を出た。彦根藩邸から桜田門まで三、四町(327から436メートル)、彦根藩の行列は総勢60人ばかりだった。雪で視界は悪く、彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので、とっさの迎撃に出難く、それは襲撃側に有利な状況だった。また江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲った前例はなく、彦根藩行列の警護は薄かった。もっとも直弼の元には以前より不穏者ありとの情報が届いていた上、当日の未明にも直接の警告があったが、護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと直弼は判断し、敢えてそのままに捨て置いた。登城する直弼の駕籠は、彦根藩上屋敷の門を出た後、内堀通り沿いを進み、江戸城外の桜田門外に差し掛かり、そこで浪士たちの襲撃を受けた。先供が松平親良邸に近づくと、まず前衛を任された水戸浪士・森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づいた。彦根藩士・日下部三郎右衛門はこれを制止し取り押さえに出たが、森は即座に斬りかかった為、日下部は面を割られ前のめりに突っ伏した。森が護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎が合図のピストルを駕籠めがけて発射した。これを合図に浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃が開始された。発射された弾丸によって、直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、修錬した居合を発揮すべくもなく、動けなくなった。襲撃に驚いた丸腰の駕籠かき、徒歩人足はもちろん、彦根藩士の多くも算を乱して遁走した。残る十数名の供侍たちは駕籠を動かそうと試みたものの、銃撃で怪我を負った上に襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪の上に放置された。護衛の任にある彦根藩士たちは、雪の水分が柄を湿らせるのを避けるため、両刀に柄袋をかけており、これと鞘袋が邪魔してとっさに抜刀できなかった。このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んだりして、指や耳を切り落とされるなどした。こうした防御者側に不利な形勢の中、彦根藩士も抵抗を行い、結果として襲撃者側も被害が拡大した。二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根藩一の剣豪の河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って浪士・稲田重蔵を倒し、さらなる襲撃を防いだ。同じく駕籠脇の若い剣豪・永田太郎兵衛正備も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重傷を負わせた。しかし、河西が斬られて倒れ、永田も銃創により戦闘不能になる。乱闘により、襲撃者側で当初戦闘に参加しない予定だった斎藤監物も、途中から戦闘に加わった。やがて、護る者のいなくなった駕籠に、次々に襲撃者の刀が突き立てられた。先ず稲田が刀を真っ直ぐにして一太刀、駕籠の扉に体当たりしながら駕籠を刺し抜いた。続いて広岡、海後が続けざまに駕籠を突き刺した。この間、稲田は河西忠左衛門の反撃で討ち死にし、河西も遂に斃れた。そして、有村が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴み駕籠から引きずり出した。直弼は既に血まみれで息も絶え絶えであったが、無意識に地面を這おうとした。有村が発した薬丸自顕流の猿叫(「キャアーッ」という気合い)とともに振り下ろした薩摩刀によって、直弼は斬首された。事変の一部始終をつぶさに見ていた水戸藩士・畑弥平は、襲撃から直弼の首級をあげるまで「煙草二服ばかりの間」とのちに述懐しており、襲撃開始から直弼殺戮まで、僅か十数分の出来事だった。有村は刀の切先に直弼の首級を突き立てて引き揚げた。有村の勝鬨の声を聞いて、浪士らは本懐を遂げた事を知った。が、急ぎ彼らが現場を立ち去ろうとしたとき、斬られて昏倒していた目付助役の彦根藩士・小河原秀之丞がその鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがり、米沢藩邸前辺りで有村の後頭部に斬りつけた。水戸浪士・広岡子之次郎らによって小河原はその場で斬り倒されたが、現場に隣接する杵築藩邸の門の内側から目撃した人物の表現によると、小河原が朦朧と一人で立ちあがった直後、数名の浪士らから滅多微塵に斬り尽くされた有様は目を覆うほど壮絶無残だったという。一方、この一撃で有村も重傷を負って歩行困難となり、直弼の首を引きずっていった。しばらくの逃走の後、有村は若年寄・遠藤胤統 (近江三上藩)邸の門前で自決した。これにより、直弼の首は遠藤家に収容されることになった。小河原は救助され、藩邸にて治療を受けるが即日絶命した。小河原は、自分の他に数名でも自分と同じような決死の士がいれば、決して主君の首を奪われることはなかったと無念の言葉を遺している。現場跡には、襲撃者側で唯一その場にて討ち死にした稲田の他、数名の彦根藩供侍と首のない直弼の死体が横たわり、雪は鮮血で赤に染まっていた。襲撃の一報を聞いた彦根藩邸からはただちに人数が出撃したが既に遅く、やむなく人員を割いて死傷者や駕籠を収容し、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶ、数本の腕が落ちた雪まで徹底的に回収した。直弼の首は前述の遠藤胤統邸に置かれていた。所在を突き止めた井伊家の使者が返還を要請したが、遠藤家は「幕府の検視が済まない内は渡せない」と5度までも断り、その使者を追い返した。そこで井伊家、遠藤家、幕閣が協議の上で、表向きは闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽り、内向きでは「遠藤家は負傷した直弼を井伊家に引き渡す」という体面を取ることで貰い受け、事変同日の夕方ごろ直弼の首は井伊家へ送り届けられた。安政7年3月3日(1860年3月24日)、稲田重蔵は、彦根藩士の河西忠左衛門から斬り倒され、襲撃者側でただ一人戦闘中討ち死にした。その他の襲撃者らは直弼の首級を揚げたのを確認後、共に現場を去って日比谷門へ向かった。有村次左衛門は戦闘で首級を取ったが深手を負い、直弼の首を手にし現場を去りがけに、米沢藩邸前の東角で追い縋ってきた彦根藩士・小河原秀之丞より背後から斬りつけられた。広岡子之次郎らは負傷していたが、助太刀に回ってこれを制し小河原に止めを刺した。有村は直弼の首級を手に和田倉門を抜けたが、辰ノ口で力尽き遠藤胤統(遠藤但馬守)邸前で自決した。広岡は、辰ノ口を通り姫路藩・酒井家(酒井雅楽頭)の邸外まで辿り着いた所で力尽き、自刃した。また山口辰之介と鯉渕要人も、彦根藩士による反撃で重傷を負っていた。山口と鯉渕は和田倉門までたどり着かず、馬場先門と和田倉門の間の濠沿いにある八代洲川岸で、増山河内守邸の角を右へ曲がり、織田兵部少輔邸の塀際で鯉渕が山口を介錯し、鯉渕も自刃した。佐野竹之介・斎藤監物・黒澤忠三郎・蓮田一五郎の4名は、戦闘により負傷しながらも連れ立って移動し、和田倉門前の老中・脇坂安宅(脇沢中務大輔)邸へ『斬奸趣意書』を提出し自訴した。佐野竹之介は特に重傷であり、事件当日の夕刻に絶命した。4人は熊本藩・細川家へ預けかえられた(死んだ佐野も死体が運ばれた)。斎藤監物も重傷を負っていたため、5日後の3月8日に落命した。黒澤忠三郎も重傷であったが、手当てにより命は取り留めた。黒澤はその後、富山藩・前田家へ預け替えられた後、4月21日に三田藩・九鬼家へ移され、7月12日、九鬼家で病死した。蓮田一五郎は、細川家から、膳所藩・本多家へ預けかえられた。蓮田には絵を描く才能があった為、細川邸にて事変の詳細を描いた。取り調べの後、文久元年(1861年)7月26日、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之介の4名は、熊本藩主・細川斉護(細川越中守)邸へ趣意書を提出し自訴した。大関・森・杉山は負傷しており、森山は戦闘に参加したが無傷であった。大関和七郎は、富山藩・前田家、続いて豊岡藩・京極家へ預け替えられた。森五六郎は、臼杵藩・稲葉家、さらに大和小泉藩・片桐家へ預け替えられた。森が稲葉家家臣らへ語った記録は、『森五六三郎物語』と呼ばれている。杉山弥一郎は、村松藩・堀家に預け替えられた。森山繁之介は、一ノ関藩・田村家、さらに足利藩・戸田家へ移された。大関・森・杉山・森山の4名とも、取り調べの後、文久元年(1861年)7月26日、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。かくして襲撃の戦闘に参加した16名のうち,1名が闘死、4名が自刃、8名が自訴した。残る3名(広木松之介・増子金八・海後磋磯之介)は大きな負傷なく現場を脱し、戦闘不参加の関鉄之介・岡部三十郎や協力者とともに、計画通り京を目指した。しかし、幕府の探索の手も拡がり、襲撃計画の首謀者である水戸浪士・金子孫二郎は薩摩浪士・有村雄助、水戸浪士・佐藤鉄三郎らと共に京へ向かったが、途上、3月9日に伊勢・四日市の旅籠で薩摩藩兵により捕縛された。金子孫二郎と佐藤鉄三郎は伏見奉行所に引き渡されて、24日江戸へ護送された。取り調べの後、金子は文久元年(1861年)7月26日、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。佐藤は追放となった。有村雄助は、3月9日捕縛された後、薩摩藩士の関与を隠したい藩の思惑のため、一時大坂の薩摩藩邸に移され、薩摩へ護送された。3月24日、幕府の探索が薩摩に迫ったため、藩命によって自刃させられた。先に京に入っていた水戸浪士・高橋多一郎と庄左衛門親子は、3月24日、大坂にいたところを幕吏の追捕を受け、四天王寺境内へ逃げ込み、その寺役人宅にて自刃した。大坂で薩摩藩との連絡役であった水戸浪士・川崎孫四郎も、3月23日探索に追い詰められて自刃し、翌日死去した。襲撃者のうち戦闘不参加で、検視見届役として参加していた岡部三十郎は、事件後、関鉄之介らと大坂へ向かったが、薩摩藩の率兵上京計画が不可能と知って水戸へ帰還し、久慈郡袋田や水戸城下辺りへ潜伏した。追手を逃れ、再び江戸へ出たが、文久元年(1861年)2月、江戸吉原で捕まった。文久元年(1861年)7月26日、自訴した面々や金子孫二郎とともに、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。襲撃者の一人、広木松之介は、かねてからの計画通り京へ向かうが、加賀国より先は幕府の厳重な警戒で叶わなかった。広木は一旦水戸に帰郷し、数日後再び京を目指して出発するが、幕府の詮議が厳しく、能登国本住寺に潜伏した後、越後国佐渡島、越中国を経た。越後国新潟で偶々居合わせた水戸藩士・後藤哲之介は広木を助け、旅費を用意した上で広木を逃がした。文久元年(1861)、後藤は幕吏に捕らわれた。所持品から広木の印が見つかった上、取り調べ時に広木松之介であると供述したため、文久2年(1862年)5月江戸へ送られ、伝馬町の監獄に繋がれた。しかし広木松之介を名乗った後藤へ尋問もなく、絶食した後藤は文久2年(1862年)9月13日に息絶えた。一方、広木は相模国鎌倉・上行寺へ赴き剃髪したが、襲撃から3年目の日にあたる文久2年(1862)3月3日、上行寺の墓地で切腹した。また、広木が直弼の首級を水戸へ持ち帰った、という伝承がある。襲撃の現場総指揮である関鉄之介は、3月5日に江戸を出発して京へ向かい、中山道から大坂へ入った。大坂へ辿り着いた関は高橋多一郎らの死と、薩摩藩側の率兵上京計画が果たされない事を知った。以後、彼は 山陰、山陽、四国、九州と西国各地を転々とした。関は薩摩藩へも入ろうとしたが、既に島津久光の命で薩摩の全関所が閉ざされていたため、薩摩入りできなかった。文久2年(1862年)4月5日、江戸に護送され、小伝馬町の牢へ入った。関の獄中の詩集『遣悶集』がある。又、襲撃前の潜伏時に関が身を寄せた芸妓・滝本いのは、幕吏に捕らわれて尋問により獄死しており、関はここでそれを知った。同年5月11日、関はこの小伝馬町の牢において斬首された。他の関与者も多くは自首や捕縛された後に刑死、獄死した。襲撃者のうち、増子金八と海後磋磯之介は潜伏して明治時代まで生き延びた。増子は腕や肩に傷を負ったが浅手だった為、現場を脱して京へ向かった。しかし、周囲の警戒が厳重で叶わず帰郷。その後商人に扮して捕吏の手を逃れ、水戸藩から北の各地に潜伏した。明治時代となってから石塚村へ戻るが、襲撃事件について沈黙し、語ろうとしなかった。増子は同志の冥福を祈りながら読書と狩猟の余生を過ごし、明治14年(1881)に病没した。海後は、指を切り落とされながらも現場を脱し、水戸藩領の小田野村にある親戚の高野家などへ隠れた。その後、海後は京へ向かうため越後国へ向かったが、文久3年(1863年)に帰郷。また、7月26日に、処刑された蓮田、大関、森、杉山、森山、金子、岡部の7人も回向院に埋葬された。 文久の改革で、上記浪士の遺骸は故郷に帰葬を許されて、水戸の常盤共有墓地他に改葬された。
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