「平安京物語」109”奥州藤原氏の落日“秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い文治元年(1185年)、源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。秀衡は頼朝から出された義経の引渡要求を再三再四拒んできたが秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡すことで頼朝との和平を模索した。しかし、関東の後背に独立政権があることを恐れた源頼朝は同年7月、義経を長らく匿っていたことを罪として奥州に出兵。贄柵(秋田県大館市)において家臣の造反により泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。平家滅亡により源氏の勢力が強くなったこと、奥州に深く関わっていた義経が頼朝と対立したことなどにより中立を維持できなくなっことが滅亡の原因となった。清衡の四男・藤原清綱(亘理権十郎)は当初亘理郡中嶋舘に居城し以後平泉へ移りその子の代には紫波郡日詰の 樋爪(比爪)館 に居を構え樋爪氏を名乗り樋爪俊衡と称している。奥州合戦では平泉陥落後、樋爪氏は居館に火を放ち地下に潜伏したが、当主・俊衡らは陣ヶ岡の頼朝の陣に出頭し降伏した。頼朝の尋問に対し法華経を一心に唱え一言も発せず命を差し出したので、老齢のことでもありその態度を是とした頼朝は樋爪氏の所領を安堵した。しかし、その後歴史の表舞台から消えた。子や弟も相模国他へ配流された。経清(亘理権大夫)以来代々の所領地曰理郷(亘理郡)も清綱(亘理権十郎)の没落とともに頼朝の幕僚・千葉胤盛の支配する所となった。清綱の息女の乙和子姫は、信夫荘司佐藤基治に嫁し佐藤継信・佐藤忠信兄弟(義経の臣)の母親として信夫郡大鳥城(福島市飯坂温泉付近・現在舘の山公園)に居城した。全国佐藤姓の源の一つとなった。藤原秀衡の四男高衡は、投降後相模国に流罪となった。後に赦免され、暫くは鎌倉幕府の客将のような存在であったと言われるが、正治3年(1201年)、城長茂らが幕府転覆を図った建仁の乱において、謀叛の一味に加わり幕府の追っ手によって討ち取られた。藤原秀衡の弟藤原秀栄は分家して十三湊に住み、十三氏(十三藤原氏)を名乗った。十三氏は鎌倉時代も残り、十三秀直の代の(寛喜元年)1229年に安東氏に滅ぼされるまで続いた。
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