「浪速史跡探訪」綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)は、大阪市北区神山町にある神社。北野(喜多野、喜多埜)天神とも通称され、概ね旧西成郡北野村(キタの東半)を氏地としている。 茶屋町に当社の御旅社があり、角田町に境外社の歯神社(はじんじゃ)がある。祭神・嵯峨天皇(本社本殿)・菅原道真公(本社本殿、御旅所本殿)・宇迦之御魂大神(本社喜多埜稲荷神社、御旅所玉姫稲荷神社、歯神社)・白龍大神(本社白龍社)・猿田彦大神(本社白龍社)社伝によれば、創建は平安時代、摂州菟餓野に嵯峨天皇が行幸した縁により、皇子の源融が天皇崩御ののち、追悼のためこの地に七堂伽藍を興し、太融寺を創建。嵯峨天皇を祀る社として「神野太神宮」を併せて創建したという。後に菅原道真が無実の罪で大宰府へ左遷の折、この地に着いたところ、一本の紅梅が今を盛りと咲き匂っており、しばしこの梅を眺めるため、船の艫綱(ともづな)をたぐりよせ、即席の座席としたことが「綱敷(つなしき)」の名の由来となるという。 この時、地元の者より「ゆりわ」なる器に団子を盛りて道真にすすめたところ、道真は大いに喜び、今も大事な神事の折にはこの「ゆりわ」に団子を盛って供えている。 また、追従の老臣、度会春彦の孫、春茂以下六名の者を集めさせ、この地に留まるように伝えた。道真と離れることはつらいことであるが、道真直々の言葉であればその帰りをいつまでもこの地にて待つとして、道真より白江の姓を賜り、別れた。その後、道真は大宰府の地にて死去し、一族は、道真の愛でた紅梅の元に小祠を営み梅塚と称して道真を祀った。正暦4年に道真の無実の罪が解かれ朝廷より正一位太政大臣を追贈された折、この小祠と嵯峨天皇を祀る「神野太神宮」とを併せて祀るために社殿を建立。今に至るまでその春茂の子孫、白江