『江戸泰平の群像』74・池田 光政(いけだ みつまさ)(1609~1682)は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田宗家3代。姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男。母は江戸幕府2代将軍・秀忠の養女で榊原康政の娘・鶴姫。当時の岡山藩主・池田忠継(光政の叔父)が幼少のため、利隆は岡山城代も兼ねており、光政はそこで生まれた。慶長16年(1611年)に江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる。慶長18年(1613年)に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。同じ年に父と共に徳川家康に謁見する。このとき家康は5歳の光政を膝下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。そして脇差を与えたが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語った。家康は光政の態度に笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという。元和2年(1616年)6月13日に父・利隆が死去した。このため6月14日に幕府より家督相続を許され、跡を継いで42万石の姫路藩主となる。しかし元和3年(1617年)3月6日、幼少を理由に因幡鳥取32万5,000石に減転封となった。鳥取藩主となった光政の内情は苦しかったという。因幡は戦国時代は毛利氏の影響力などが強かったとはいえ、小領主が割拠して係争していた地域だったところから藩主の思うように任せることができず、生産力も年貢収納量もかなり低かった。しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮した。このため、家臣の俸禄は姫路時代の6割に減らされ、下級武士は城下に住む場所が無いので土着して半農半士として生活するようになった。光政は鳥取城の増築、城下町の拡張に努めた。元和6年(1620年)、幕府より大坂城城壁の修築を命じられた。元和9年(1623年)7月、15歳で元服し、このとき当時名乗っていた幸隆(よしたか)を、第3代将軍・徳川家光の偏諱を拝受し光政と名乗った。このとき、家光の上洛に従い、従四位下・侍従に叙任した。寛永3年(1626年)8月の家光上洛にも従い、左近衛少将に叙任された。寛永5年(1628年)1月26日に本多忠刻の娘・勝子(円盛院)を大御所の秀忠の養女として正室に迎えた。寛永9年(1632年)4月3日に叔父の岡山藩主・池田忠雄が死去し、従弟で忠雄の嫡男・光仲が3歳の幼少のため山陽道の要所である岡山を治め難いとし、5月に光政は江戸に召しだされて、6月に岡山31万5,000石へ移封となり、光仲が鳥取32万5,000石に国替えとなった。以後「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫である光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなった。儒教を信奉し陽明学者・熊沢蕃山を招聘した。寛永18年(1641年)、全国初の藩校・花畠教場を開校した。寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校として閑谷学校(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。教育の充実と質素倹約を旨とし「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。岡山郡代官・津田永忠を登用し、干拓などの新田開発、百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。また、産業の振興も奨励した。このため光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。三名君と称された人物は個性的な人間が多い。光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・心学を藩学とし、実践したところに彼の価値がある。この陽明学は自分の行動が大切であるとの教えで、これを基本に全国に先駆けて藩校を建設、藩内に庶民のための手習所を数百箇所作った。後に財政上の理由で嫡男の綱政と手習所存続をめぐって対立した。のちに手習所を統一して和気郡に閑谷学校を造った。光政の手腕は宗教面でも発揮され、神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。儒学的合理主義により、淫祠・邪教を嫌って神社合祀・寺院整理を行い、当時金川郡において隆盛を極め、国家を認めない日蓮宗不受不施派も弾圧した。このため備前法華宗は壊滅している。こうした彼の施政は幕府に睨まれる結果となり、一時は「光政謀反」の噂が江戸に広まった。しかし、こういった風説があったにもかかわらず、死ぬまで岡山32万石が安泰であったのは、嫡男の綱政が親幕的なスタンスをとったこともあるが、光政の政治力が幕府からも大きな評価を得たためではないかと考えられる。光政は地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行った。また、庶民の奢侈を禁止した。特に神輿・だんじり等を用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を禁じた。このため、備前は米どころであるにもかかわらず、銘酒が育たなかった。現在岡山名物の料理となっているちらし寿司の一種・ばら寿司の誕生にも光政の倹約令が絡んでいるといわれる。倹約令の一つに食事は一汁一菜というのがあり、対抗策として魚や野菜を御飯に混ぜ込んで、これで一菜と称したという。なお正室の勝子とは最初の頃はあまり良好な夫婦関係とはいえないとみられていたが、その後は傍目も羨む仲の良い夫婦になったという。寛文12年(1672年)6月11日、藩主の座を長男の綱政に譲り隠居した。このとき次男の政言に備中の新田1万5,000石、三男の輝録に同じく1万5,000石を分与した。隠居から4ヵ月半後、母の福正院が死去し、6年後には正室の勝子も死去するという不幸にあったが、光政は隠居ながらも実権は握り続けた。天和元年(1681年)10月に岡山に帰国した頃から体調を崩しだした。光政は岡山城西の丸で養生したが、年齢が70を超えていることもあって良くはならなかった。天和2年(1682年)4月、京都から岡玄昌という名医を招聘するも良くはならず、死期を悟った光政は5月1日に寝室に家老ら重臣を呼び出して遺言を伝えた。5月22日に岡山城西の丸で死去。享年74。</font>