『歴史の時々変遷』(全361回)332“安政の泣き一揆”
「安政の泣き一揆」1858年(安政5年)7月11日夜、加賀国で起こった一揆。卯辰山から金沢城に向かって米の開放を求めて叫んだことが特徴的である。この年は、冷夏や長雨などの自然災害による米の不作があった。それをうけての買占めや売り惜しみにより、米の価格が高騰していた。そのため、庶民の生活は困窮した。7月11日の夜、約2,000人が卯辰山に登り、城に向かって米の開放を求めて叫ぶ。卯辰山から金沢城まで直線距離で1.7kmあり、風に乗った声は山下の重臣屋敷や城の殿様にも届いたという。翌日、藩の御蔵米500俵が放出され、米の値段も下げられる命令が出された。事前の断りもなく直訴をすることは重罪であったため、首謀者7名が7月26日に捕縛された。5名が打ち首、2名が獄死した。この7人の霊を祀るため、卯辰山の山道に七稲地蔵を建立し、1908年(明治41年)に浄土宗寿経寺に寄進されて山門前に安置された。地蔵の他に墓碑と説明板がある。米の開放を求め叫んだこの一揆は、暴力を伴わなかったことで、現在のデモに通ずるものがあるといえる。</font>