「二十二社巡り」石清水八幡・宇佐八幡神宮、鶴岡八幡宮と共に日本三大八幡宮である。八幡神は菩薩号を付して八幡菩薩とも呼び神仏習合の霊地でもある。創建は清和天皇の御世、大安寺の僧行教が宇佐八幡宮に参詣した折りに「われ都の近く、男山の峰に移座し国家を鎮護せん」と神託を受けたのが始まりと言う。翌年の貞観二年清和天皇の命を受け社殿を建立した以後、清和源氏の氏神として源氏の守護神と成った。祭神は、中御前に応仁天皇、西御前に宗像三女神、東御前に神功皇后を祀っている。平安遷都されてから京都の北東の鬼門を比叡山延暦寺が、南西の裏鬼門を石清水八幡宮が司り、天皇、公家から朝野の人々に信仰が深く、天皇の行幸は二百五十回を数えたと言う。
社格としても二十二社の上位にして伊勢神宮に次ぐ名神とされている。だが神道と言っても明治維新の神仏分離令までは神仏習合の霊地として山内坊舎四十を数え峰々を「南無八幡大菩薩」などの読経の声明が響き渡り、形だけの神人(神職)が社殿で儀礼、祭礼を執り行なっていた。実際には寺院が管理し、平安から鎌倉かけては僧兵らが住持し牛耳っていた。
時代が鎌倉に移って「石清水八幡宮」を有名にさせたのは、「文永の役」と「弘安の役」で、蒙古来襲来の二度に渡る攻め入られた時に太暴風で元軍を撃退させた「神風」説が浮上し当時の日本人を驚かせた。
 弘安四年(一二八一)六月、七月にかけの襲来に、西大寺の叡尊は国家一大事危機と一門の僧三百人を率いて石清水八幡宮に入寺し、北嶺の延暦寺、園城寺の持戒僧七百人が加わり七日間昼夜を問わず「東風を以って兵船を本国へ吹き送り、来人をそこなわずして乗るところの船を焼き失わせたまえ」と「勝王経、仁王経、法華経」の転読、尊勝陀羅尼の勤行の太祈願をした。この国難に国中は挙国一致で亀山上皇、北条時宗は、伊勢神宮を始め、国中の寺社に祈願をさせた。鎌倉では日蓮が釈尊滅後二千年、末法の到来と「南無妙法蓮華経」祈願し、八幡の祈願は梵天、帝釈天の怒りを受けると幕府に迫り、自らも祈願をかけた。国中の祈願の甲斐あってか、二度の来襲は奇跡的に大嵐でからくも元軍は退散したが、その後誰言うともなく「神風」と語りつがれるようになった、有史以来国難にこれほど「一致団結」したこと記録にない。大国元国の前に侵略経験のない日本は混乱し、その不安や恐