『歴史の時々変遷』(全361回)330“安政の大地震”
「安政の大地震」江戸時代後期の安政年間に日本各地で連発した大地震である。世にいう「安政の大地震」は、特に1855年に発生した安政江戸地震を指すことが多いが、この前年に発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震および安政南海地震も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めて「安政の大地震」と総称される。安政大地震、あるいは安政地震とも呼ばれるが、単に「安政地震」といえば、南海トラフが震源と推定される宝永地震や昭和地震に対比して安政東海地震と安政南海地震を総称して呼ぶ場合もある。1854年の伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震は嘉永7年に発生した地震であり、当時の文書、日記、瓦版などは「嘉永七年甲寅・・」と記され、地震後の嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に安政に改元されたため本来「嘉永の大地震」と呼ぶべきであるが、明治改元の際、詔勅で「慶応4年(1868年)を明治元年と改元する」とされ慶応4年1月1日に遡り明治元年と改元された例に倣い、嘉永7年1月1日に遡って安政元年に改元されたと解釈され、「安政の大地震」でよいとされる[15]。歴史年表は嘉永7年1月1日に遡り安政元年とし、『大日本地震史料』から『理科年表』に至る各種の地震史料はこの方式を採用している1853(嘉永6年6月3日)には黒船来航、同年(7月18日)にはディアナ号が来航し、江戸幕府は相次いで開港を迫られる時勢にあった。ディアナ号で来航したプチャーチンは嘉永7年11月4日の安政東海地震に遭遇する直前の11月1日に下田の福泉寺で幕府から派遣された川路聖謨らと会見し下田が安全な港でないことを力説し代港を強く求めていた。東海地震津波で荒廃した下田はその後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となり、1856年にはハリスが着任して幕府との交渉にあたった。ハリスの妾となった唐人お吉も支度金25両、年俸125両で身売りせざるを得なくなったのは、生家が東海地震津波で流され貧苦のどん底に落とされた背景があったとされる。「安政の大地震」はこのような幕末の多難な状況下で討幕運動に呼応するかの如く連発した大地震であった。

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