「新西国観音三十三所巡り」水間観音・新西国4番札所“龍谷山水間寺 天台宗 本尊聖観世音菩薩 新西国四番札所、「水間観音」の水間寺は南海貝塚駅より水間鉄道で終点水間駅下車五百メートル 高速阪和道貝塚インターすぐにある。泉州は和泉葛城山を背になだらかな山間にあって、和泉随一を思わせる堂々たる伽藍の水間寺の創建は古く。
寺伝に縁れば、奈良時代は聖武天皇が病気になった時、夢に観音のお告げを受けられたと言う。その事を行基に話し現地に赴くように命じたという。
行基はお告げに随い当地を訪れた所、観音さんの化身である白髪の仙人と16人の童子が現れた。導かれ裏山の滝に向かうと、身の丈一寸八分の聖観世音菩薩を見たという、聖武天皇の勅命によって行基は滝の傍らにお堂を建て、完成するまで16人の童子と共にしたという。
近郷近在から遠方の願を掛ける人々に「水間観音さん」と親しまれ、初午の日には「厄除け観音」として厄年のお参詣の人が絶えない。
その後、天正十三年に豊臣秀吉の、根来攻めの折り際その下臣堀秀政の軍勢によって火が放たれて、七重伽藍を始め坊舎などが火焔に包まれ灰塵と化したのである。その後、徳川時代岸和田城主の岡部美濃守は名刹水間寺を亡びることを惜しみ本堂と三重の塔などを再建されていった。
水間寺は前後に川が流れ山門が無く、何時でも誰でも何処からでも入れる、自由豪放さは訪れる者はいつでも観音様に願いが掛けられる。川に架けられた「厄除け橋」に天台宗別格本山の石碑があって、参道で本堂より三重塔が中央に見える。
元は多宝塔で多宝如来が安置されていたが、天正の戦乱で焼失したために「三重塔」を建立し釈迦如来が安置されている。
水間の三重塔は再建は天保年かにもかかわらず昭和に修理が成されたと思われる、優美で新しさを思わせる塔で井原西鶴の作品のモデルになったと言われている。
本堂は二百年前に再建された大阪府か最大級の重厚な二重屋根のお堂である。本堂裏の小川に龍神より授けられた観音出現の滝、渓谷には観音像が降臨した石に伝教大師が刻んだ不動尊や、弘法大師の刻んだ名号石もあるという。
水間寺は新西国四番札所として地元に及ばず遠方からの参拝の人の途切れは無い。境内の裏を川を隔て「行基堂」の南側に「鏡池」がありその池に中に「瑞泉堂」があって余りにも聖なる水で、清らかで澄み切って帰るも住めないと伝えられている。
「薬師堂」「「弁財天堂」本堂の東に「愛染堂」に愛染明王は行基が椿の木刻んだものと言われ、その愛染堂の前に近松門左衛門の「お夏清十郎笠物狂」などで有名な「お夏、清十郎の墓」がある。水間の豪農楠右衛門の娘、お夏がこの愛染明王に恋を成就を祈願した縁で「お夏清十郎」の墓が立てられたと言う。また与謝野蕪村も「ここに今日、お馬水かえ、水間寺」と句を残している</font>


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