『歴史の時々変遷』(全361回)328“茸山騒動”
「茸山騒動」人吉藩、肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩。藩庁は人吉城(現在の熊本県人吉市)に置かれた。藩主家の相良氏は鎌倉時代初頭の建久4年(1193年)、この地の地頭に任ぜられた。その後戦国大名に成長し、江戸時代に入っても領主として存続し明治維新を迎えた極めて稀な藩の一つである。 天保12年(1841)に起こった百姓一揆である。14代藩主頼之は田代政典を家老に登用し藩政改革を推進した。その一環として豊後国より椎茸栽培を導入し座(特権商人制度)を設けた。作物への課税や椎茸山への入山禁止などに不満を抱いた藩内一円の農民約1万人が、特権商人宅などを打ち壊した。結果、政典は切腹し、座が廃止されることで収拾した。また、一揆を煽動したとして門葉の相良左仲頼直も切腹となった。左仲切腹の背景には、次期藩主長福の擁立をめぐって、擁立支持の家老派と擁立反対の門葉派との対立があったようである。
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