「古社寺探訪」海住山寺京都府木津川市加茂町にある真言宗智山派仏教寺院。かつて恭仁京があった瓶原を見下ろす三上山(海住山)中腹に位置する。 山号は補陀洛山、本尊は十一面観音。奈良時代の創建を伝え、鎌倉時代、貞慶によって中興された。国宝五重塔で知られる。仏塔古寺十八尊第三番。当寺の創建事情については必ずしも明らかではないが、寺伝では天平七年(735年)、 聖武天皇の勅願により良弁を開山として藤尾山観音寺という寺号で開創したという。伝承によれば、聖武天皇は、平城京の鬼門にあたる現・海住山寺の地に伽藍を建立すれば、東大寺大仏の造立が無事成就するであろうとの夢告を受け、良弁に命じて一寺を建立させた。良弁が感得した十一面観音像を本尊として開創したのが、海住山寺の前身の観音寺であるという。なお、史実としては聖武が大仏建立の詔を発したのは天平十五年(743年)であり、平城京の地で大仏造立を開始したのは天平十七年(745年)である。その後、保延三年(1137年)に全山焼失し、70年余の間、再建されなかったという。海住山寺の歴史が史実として確認できるのは鎌倉時代の十三世紀以降であるが、現本尊の十一面観音像は様式から十世紀頃の造像とみられ、その頃には海住山寺の前身寺院の存在した可能性がある。寺は承元二年(1208年)、貞慶によって中興され、観音寺から補陀洛山海住山寺に改められた。貞慶は解脱上人とも称する平安時代末期 - 鎌倉時代初期の僧で、当時勢力を増しつつあった念仏専修の浄土教を激しく批判し、戒律の復興に努めた。貞慶はもと興福寺に属したが、南都仏教の堕落と俗化を憂い、建久三年(1192年)、南山城の笠置寺に移った。その後、上述のように承元二年(1208年)に海住山寺に移り、建暦三年(1213年)に五九歳で没するまで、晩年の5年ほどをこの地で過ごした。海住山寺という寺号の由来については、『明本抄』「良算聞書」に以下のようにある。まず、「海」とは、観音の衆生を救済しようという誓願が海のように広大であることを意味し、のような観音の誓願に安するという意味があるとする。また、インドの仏教では観音の住処は南方海中の補陀洛山にあるとされ、当寺をするである補陀洛山になぞらえる意味もあるという。貞慶の没後は、その弟子の覚真が後を継いだ。覚真は俗名を藤原長房といい、参議にまで上った人物であったが、四十一歳にして出家し、貞慶の弟子となった。海住山寺の文書には、貞慶の一周忌にあたる建保二年(1224年)、覚真が仏舎利七粒を塔に安置したとの記録があり、これが現存する五重塔の完成を意味するものと解釈されている。海住山寺は近世まで興福寺の支配下にあったが、明治以降は真言宗智山派に転じている。山の中腹にある境内地は東を正面とする。山門を入り、正面には東面する本堂、その右手前に南面する文殊堂、本堂の左手(南)には五重塔が建つ。