『江戸泰平の群像』67・阿部 忠秋(あべ ただあき)(1602~1675)は、江戸時代前期の下野壬生藩・武蔵忍藩主。徳川家光・家綱の2代にわたって老中を務めた。同じく老中の阿部重次は従兄にあたる。慶安の変後の処理では浪人の江戸追放策に反対して就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。その見識と手腕は明治時代の歴史家竹越与三郎より「(酒井忠勝・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」(『二千五百年史』)と高く評価された。鋭敏で才知に富んだ松平信綱に対し、忠秋は剛毅木訥な人柄であり、信綱とは互いに欠点を指摘、補助しあって幕府の盤石化に尽力し、まだ戦国の遺風が残る中、幕政を安定させることに貢献した。関ヶ原の戦いを扱った歴史書・『関原日記』(全5巻)の編者でもある。忠秋は「細川頼之以来の執権」と評せられ[1]、責任感が強く、また、捨て子を何人も拾って育て、優秀な奉公人に育て上げた。子供の遊ぶ様子を見るのが、忠秋の楽しみであった。阿部忠吉(阿部正勝の次男)の次男。母は大須賀康高の娘。長兄の夭折により家督を相続する。名ははじめ正秋、寛永3年(1626年)に徳川秀忠の偏諱を拝領し、忠秋と名乗った。正室は稲葉道通の娘、継室は戸田康長の娘。息子があったが夭折し、その後も子に恵まれず、従兄の阿部政澄(重次の兄)の子の正令(後に正能と字を改める)を養子として迎えた。寛永元年(1624年)、父の遺領6000石を継ぐ。同3年(1626年)加増され、1万石の大名となる。同6年(1629年)、5000石加増。同10年(1633年)、小姓組番頭から六人衆(後の若年寄)に転じ、さらに5月5日より老中格に任じられる。同12年(1635年)、下野壬生藩2万5000石に転封され老中。同16年(1639年)忍藩5万石。正保4年(1647年)6万石。寛文3年(1663年)8万石。同6年(1666年)老中退任。同11年(1671年)隠居。延宝3年(1676年)に死去した。</font>