歴史の時々変遷』(全361回)327“近江天保一揆”
「近江天保一揆」江戸時代後期に起こった百姓一揆。甲賀騒動・甲賀一揆・三上騒動・百足山騒動・天保十三年近江天保一揆などとも言う。典型的な『惣百姓一揆』(代表越訴型一揆と異なり、庄屋等の村役人層に指導された全村民による一揆、大規模で政治的要求を掲げた)である。天保13年10月16日((新暦)1842年11月18日)近江野洲郡・栗太郡・甲賀郡の農民が、江戸幕府による不当な検地に抗議し、『検地十万日延期』の証文を勝ち取った。一揆後、幕府により数万人を超える農民に対して苛烈な取り調べが行われ、土川平兵衛等指導者11人が江戸送りとなった他、千余人の一揆参加者が捕縛され、その中の多くが獄死や帰村後衰弱死したと伝えられている。これら犠牲になった人たちのことを近江天保義民(天保義民)と言う。一揆が起こった天保13年(1842年)は、天保の大飢饉(天保4年(1833)-天保10年(1839))の直後で、当に飢饉により多くの人が餓死し、米価高騰や一揆・打ち壊しの姿がまだ生々しい記憶として残っていた。天保7年(1836)だけで大小129件もの一揆・騒動があったと伝えられる。代表的な一揆としては天保2年7月26日(1831)に長州藩で起きた『防長大一揆(長州藩天保一揆・天保大一揆とも呼ばれる)』、天保7年8月14日(1836)に天領の甲斐で起きた『天保騒動(郡内騒動・甲斐一国騒動・甲州騒動とも呼ばれる)』、9月21日(10月30日)三河の加茂郡挙母藩で起きた『加茂一揆』、天保9年5月22日(1838)に天領の佐渡で起きた『佐渡一国一揆(佐渡一国騒動)』などがあるが、天保11年11月23日(1840)庄内藩など三藩の領地替え(三方領知替え)に反発した『三方領地替反対一揆(庄内天保一揆)』、天保12年12月4日(1842)に徳島藩で起きた『山城谷一揆』など、国や藩の政策を批判する一揆が起き始めていた。農民等の一揆・騒動に加え、天保8年(1837)には、2月19日大阪で、飢饉による米不足の中更なる利を求め米買占めを行う商人や、民衆の窮状を省みない役人に反発し救民を訴えた大塩平八郎による反乱(大塩平八郎の乱)が起き、6月1日越後柏崎では国学者生田万が貧民救済を掲げ蜂起(生田万の乱)し、天保10年5月14日(1839)には幕府の鎖国政策を批判した高野長英等の蘭学者を捕縛した蛮社の獄が起きた。いずれも幕府や役人への批判が元といえる。近江においては、天保7年8月13日(1836)暴風雨から水田に多大な被害が生じ米価が4倍に高騰、毎日瀬田の唐橋から身投げ者が続出し、浅井郡甲津原村(現滋賀県米原市)では食料が無くなり木の根などを食べ、中毒から97名が死亡したとの記録がある[2]。同年12月(1837)園城寺領滋賀郡正興寺村(現大津市)にて農民が米借用を求めた騒動を起こし、天保10年11月(1839)世情不安から大津町中の木戸門警備が強化された。飢饉による被害から世情自体が騒然としつつあった。国内ばかりでなく、蝦夷地へ度重なるロシア船来航から天保2年2月18日(1831)には来航したロシア船と蝦夷地役人との間で交戦騒ぎが起こり、天保8年6月28日(1837)にはアメリカの商船モリソン号が浦賀に表れ、浦賀奉行所が砲撃し打ち払いを行ったモリソン号事件が起きた。また、隣国清では天保10年7月27日(1839)九竜沖砲撃戦からイギリスとの間で阿片戦争が勃発し、近江で一揆が起こる直前の天保13年7月24日(1842)清の敗北から南京条約が締結された。その後阿片戦争に勝利したイギリスが日本に軍艦サマラング号を来航させるとの情報がもたらされていた[4]。国内ばかりか日本を取り巻く環境が騒然とする中、天保12年閏1月7日(1841)に幕府老中水野忠邦は、第11代将軍徳川家斉の薨去を経て家斉側近を罷免し、遠山景元・矢部定謙・鳥居耀蔵などを登用し幕政改革に着手した。幕藩体制下近江は彦根藩(藩主井伊直亮 30万石、徳川家斉下の大老)・膳所藩(藩主本多康禎 7万石)・天領を除くと小領主が林立し、文政6年(1823)『近江国石高帖』によれば、近江は天領を除き在国大名領9藩、仙台藩・唐津藩など他国大名領24藩、宮門跡・公卿領8家、旗本領146家、社寺領59に細分化され領地は錯綜していた。一村を複数の領主が支配する相給が多く、野洲郡小田村(現滋賀県近江八幡市)では給主が11家に及び、また8給主が存在する村も多くあった。幕府による近江国支配の細分化は、徳川幕府が豊臣秀吉による遠国大名への京滞在賄い料として近江国内に領地を与えたことを倣ったこと、及び京・大阪に近く、交通要衝の地に大領主を置きたくなかったことによると考えられている[5]。鎌倉時代以降近江は佐々木家が治め、室町時代より戦国時代にかけて近江天保一揆が起こった湖東・湖南域は佐々木一族の嫡流六角家が長らく守護大名として君臨していた。織田信長の近江侵攻により六角家が滅亡すると同家臣の多くが帰農した。近江の庄屋層や豪商の多くは先祖を佐々木家一族や六角家被官とし、強い連帯感が存在した。実際、近江商人においては明らかな郷党意識があり[7]、甲賀郡では六角家と関係が強い甲賀五十三家や野洲郡には三上七党がおり、中世より『一味同心』・『惣国一揆掟之事』などで強く結ばれていた[6]。一揆指導者野洲郡三上村(現野洲市)庄屋土川平兵衛の家は、戦国時代以来の湖南地侍・一向門徒衆の家であり[2]、土川平兵衛が検地阻止について相談を行った、野洲郡上永原村(現野洲市)庄屋野依又右衛門は佐々木定綱の後裔で中世近江守護代であった馬渕氏の一族であった[8]。三上藩郡奉行平野八右衛門、三上村大庄屋大谷治太郎・三上藩地方役人大谷治之助兄弟、小篠原村庄屋苗村安右衛門などは三上七党の出であり、平野と大谷兄弟は従兄弟同志でもあった。また、灌漑用水分配を巡って、近江国内の川筋に沿って一村、又は複数の村が連合して井組が作られていた。井組内部の水配分については無論のこと、他の井組との交渉・協議も絶えず行われており、支配領主を超えた共同体が存在していた[6]。土川平兵衛は野洲川の水利触頭で、川筋庄屋は全て旧知の仲であった[9]。近江の地は、庄屋郷士層の出である野洲郡の北村季吟が幕府歌学方に用いられ、近江蕉門の隆盛[10]や明治初期には香川景樹の門下の渡忠秋が生まれるなど、連歌・俳諧が盛んであった。画壇においても、高田敬輔・横井金谷・岸竹堂を初めとした絵師が生まれると共に、近江蕪村と呼ばれた紀楳亭や円山応挙が足繁く訪れ、豪商・庄屋層と深く交流した。書家も明治の三筆の内、日下部鳴鶴・巌谷一六の二人は近江の生まれであり、有力な寺社や富裕な商人等に支えられ、京と一体をなす文化が存在していた。また、近江聖人と呼ばれた中江藤樹・雨森芳洲・沢村琴所などの儒学者を生み、熊沢蕃山も現近江八幡市周辺に一時期住んでいた[10]。近江の庄屋・豪商の子弟は、これら一流の学者の流を汲む近隣の私塾に入塾し、学問を行うことが普通であった。幕末野洲郡吉身村(現守山市)の庄屋の子弟で後に衆議院議員となった岡田逸治郎は幼少時森唯楽軒の私塾に通い、同速水村の出身で後に県会議員となった今川正直も膳所藩儒学者に漢学を師事したことが記録されている[11]。西川吉輔の様に豪商出身の国学者も輩出した。土川平兵衛は中江藤樹に信服し陽明学を好んで学んでいたと伝えられている[2]。一揆の原因となった検地を行う前に見分役人は各村に通達を出し、近江では「かれこれ申し立てる悪弊があるが、今回は絶対に認めない」旨記しており、弁がたつ近江庄屋層の存在を明示している。近江は江戸と上方を結び、東海道・中仙道・北国街道・八風街道が交わる、交通の要衝であった。東海道・中仙道の宿場である草津宿は天保14年(1843)当時、本陣・脇本陣各2軒、旅籠屋72軒を数える日本国内有数の宿場町であった。また、湖上運送を用い、大津は北国物産の集積地でもあった。土川平兵衛は中仙道守山宿(現守山市)の助郷勤番職を務めていたこともあり、宿場役人とも親しかった。街道通行や荷物運送を通じた情報と共に、近江に領地を持つ諸藩や様々な階層の領主からの情報が近江国内には入ってきた。加えて全国に店舗と商売網を持ち、蝦夷地には魚場を有し、幕閣や諸藩・各地の有力者と取引がある近江商人からもたらされる情報もあった。実際、近江八幡の豪商西川傳右衛門家の祖は六角家の被官であり、同家10代目西川貞二郎は野洲郡江頭村(現近江八幡市)の庄屋井狩家から養子に入った。この様に庄屋層と豪商との間には姻戚関係が存在し、多くの情報が庄屋豪商間で共有することができた。更に井組や宿場での役割等を通じ、庄屋間で広く情報を共有できる土壌が近江にはあった。三上村の大庄屋大谷家には『大阪町御奉行組与力大塩平八郎その外徒党いたし乱妨に及び候一件あらあら聞書』と言う資料があり[2]、庄屋層の情報量とその正確さを物語る資料と言える。そして情報を的確に把握し、判断できる知識を近江庄屋層は持っていた。
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