『江戸泰平の群像』66・徳川 義直(とくがわ よしなお)(1600~1650)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の九男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。新陰流第4世。父は江戸幕府初代征夷大将軍・徳川家康、母は家康の側室・相応院(亀)。正室は浅野幸長の娘・春姫。春姫との仲は良好だったが子供が産まれず、後に側室2人を迎えている。幼名は五郎太丸(その以前には千々代丸という幼名であったらしい)。諱は義知(よしとも)、義利(よしとし)、義俊(読み同じ)と名乗った後、元和7年(1621年)には義直(よしなお)に改名している。附家老の成瀬正虎は初代成瀬正成の長男、同じく附家老の竹腰正信は義直の異父兄である。なお、義直の墓は愛知県瀬戸市定光寺町の應夢山定光寺にある。極位極官は従二位権大納言、諡号は源敬公。二品前亜相尾陽侯源敬公。慶長5年(1600年)11月28日、徳川家康の九男として大坂城西の丸(京都伏見城(現在の清涼院)とも)で産まれる。甲斐国は関ヶ原の戦いの後に徳川氏が再領し、甲府城代の平岩親吉と四奉行による支配が行われていたが、慶長8年(1603年)1月には甲斐25万石を五郎太が拝領し甲府藩主となる。甲斐へ入国することはなく、五郎太は家康や生母お亀の方とともに駿府に在城し、平岩親吉が五郎太の家老・守役となり、さらに直臣旗本や武田遺臣らが五郎太の家臣として編成された。甲府城に在城する平岩は側近の佐枝種長らを五郎太に近侍させ、家康・五郎太の意向を受けて甲斐統治を行っている。慶長11年(1606年)に元服する。翌慶長12年(1607年)4月26日、死去した兄の松平忠吉の遺跡を継いで尾張国清洲藩主になると、甲斐25万石は返上され国主・城代不在の城番制に移行する。家康は甲信及び東海道の要としての重要なこの地域を管轄すべく、名古屋に天下普請の城郭として名古屋城を築いて根拠地とした。平岩親吉ら家臣団も尾張へ移り、附家老として尾張犬山城主となり尾張支配を主導した。義直自身は家康死後の元和2年(1616年)に尾張へ入国する。慶長16年(1611年)9月18日、義直が駿府城内で感冒にかかった時、侍医諸氏が集結して服薬評議を行った際に、家康は他の処方にこだわる医師の意見を退けて漢方薬の紫雪を義直に服用させている。侍医の片山宗哲に調合させたものだったが、熱気が鎮まり快癒した[1]。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣し、天王寺付近に布陣した。翌年大坂夏の陣では後詰として活躍した(天王寺・岡山の戦い)。長じてからは藩政を自ら行ない、灌漑用水の整備、新田開発などを積極的に行なって米の増産に努めた。そのほかにも検地による税制改革などで年貢収納を確立した。義直は学問を好んで儒教を奨励し、孔子堂の建立や城内の尾張東照宮の建築を進めた。また、家康の形見分けで受け継いだ「駿河御譲り本」に自身で収集した書誌を合わせ蓬左文庫を創設し、「決して門外不出にすべからず」と現在の図書館の走りとなる文庫とした。歴史書『類聚日本紀』も著している。日本武術も好み、柳生利厳から新陰流兵法の相伝を受けている。義直は朝宮御殿を拠点に、よく春日井原へ鷹狩りに行ったという。また、いつ襲われても対処できるようにするためか、寝る際には寝返りを打つごとに脇差の位置を常に手元に置き、さらに目を開けながら絶えず手足を動かして寝ていたとも伝えられている。慶安3年(1650年)、中風症で病臥していた義直は、江戸藩邸で死去した。享年51。</font>