「平安京物語」97“水島の戦い”(みずしまのたたかい)は、平安時代末期における治承・寿永の乱の戦闘の一つである。寿永2年閏10月1日、備中国水島(現在の倉敷市玉島)において源義仲軍と平氏軍との間で行われた。当時、平氏軍の拠点は讃岐の屋島にあった。平氏を追討するため、寿永2年(1183年)9月20日に源義仲軍は都を出発して屋島方面へ進軍していったが、閏10月1日、四国へ渡海する前に、水島付近で平氏軍に敗れた。義仲軍を率いていたのは、義仲の部将足利義清・海野幸広である。平氏は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を構築した。源平両軍の船舶が接近し、互いに刀を鞘から抜いて、今にも白兵戦を始めようかという時、平氏の射手が義仲軍へ矢を浴びせかけて戦闘が開始した。平氏軍は船によく装備された馬を同乗させており、その軍馬とともに海岸まで泳いで上陸した。最終的に平氏軍は勝利し、義仲軍は足利義清・海野幸広の両大将や足利義長(義清の弟)、高梨高信、仁科盛家(仁科氏)といった諸将を失い壊滅、京都へ敗走することとなった。この勝利により平氏軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津福原まで戻り、一ノ谷の戦いを迎えることとなる。なお、この戦いの最中に95%ほど欠けた金環食が起こったことが、「源平盛衰記」等の資料によって確認されている。当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから、平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある。</font>