『江戸泰平の群像』64・内藤 忠興(ないとう ただおき)(1592~1674)は、江戸時代前期の大名。陸奥磐城平藩の第2代藩主。延岡藩内藤家宗家初代。天正20年(1592年)2月1日、徳川家康の家臣(後の平藩の初代藩主)内藤政長の長男として生まれる。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣のときに父と共に安房国の留守を命じられたが、血気盛んで武勇に優れていた性格の持ち主である忠興は、兵を率いて伏見城にまで参じ、家康の側近中の側近であった本多正信に参陣を頼み込んだという。正信は家康に相談し、家康はこれを喜んで許し、井上正就配下のもとで参陣させている。慶長20年(1615年)3月、父が1万石の加増を受けたとき、忠興も冬の陣における功績で1万石の所領を与えられた。同年の大坂夏の陣では酒井家次に従って参陣して武功を挙げ、この功により1万石を加増された。元和8年(1622年)、政長が磐城平藩7万石に移封されたとき、忠興は陸奥泉藩に2万石を領する大名となった。寛永11年(1634年)、父が死去すると家督と所領を受け継ぎ、それまでの所領であった泉は弟の内藤政晴に相続させた。その後、忠興は藩政に力を注ぎ、新田開発や検地などの農業政策、厳格な税徴収などを行ない、平藩の石高を実質的に2万石も増加させた。寛文10年(1670年)、長男の義概に家督を譲って隠居する。延宝2年(1674年)10月13日に死去した。享年83。恐妻家だったといわれ、それを示す逸話がある。正室は酒井家次の娘であるが、気の強い女性であった。あるとき忠興は、正室に内緒で家中でも特に美女といわれる女性を呼び寄せた。すると正室はこれに怒って、薙刀を振りかざして忠興を追い回したという。このため、以後は女性関係を慎み、藩政に関しても常に正室の意見も聞いたといわれる。