『浪速史跡めぐり』難波宮跡・大阪上町台地は歴史の大舞台、飛鳥時代の難波宮前期、奈良時代の難波宮後期と伝説の仁徳高津宮に、聖徳太子の四天王寺、信長と一向衆徒の石山合戦、秀吉の大坂城、大阪冬の陣、夏の陣と何かにつけ歴史の変貌が通り過ぎて言った夢舞台であった。
記述に拠れば飛鳥時代は大化の改新後、天皇(大王)に即位したのが孝徳天皇(古人大兄)であった。乙巳の変の大化元年(645)に都を難波長柄豊崎宮に遷都すると記されている。
計画から完成まで二,三年は必要とし、宮廷の移転に七,八年は掛かっただろう。建物の規模は掘っ立て柱建物からなって、草葺屋根であったという。
「この宮城の状、ことごとくに論べからず」と記され言葉では言い尽くせないほどの大きな宮殿と伝え、回廊と門で守られ北側の区画は天皇の住む「内裏」その南に前殿、八角殿、正殿があり、内裏の南門に朝堂院、その南に朱雀門と主な建物には六十,八十CMの柱が使われていたようである。遷都後、孝徳天皇は政変で孤立し、病伊に倒れ後、宮殿は焼失したと伝えられている。
前期難波宮あと発見は天武天皇の復都制で飛鳥、難波の都としたが朱烏元年(686)に宮低は焼失した跡が昭和三十五年に発掘により発見されている。
後期難波宮は聖武天皇の時代に大仏造立、国分寺配布、恭仁宮、信楽の宮と難波宮遷都と目まぐるしく変わった時代、天平十六年(744)に一時的に都としたもので、礎石の上に柱を置き、瓦葺きの建物であったようで、大極殿は四十二Mの二十一Mの石作りの基壇の上に立ち、柱は主塗り、窓は緑に彩られ中国風の鮮やかな外観であったと予測されている。
奈良時代の難波京は東西南北に伸びる碁盤目に状の道路にって整然と整備され、現在のJR寺田町駅に抜ける南北道は朱雀大路と考えられ、さらに百済王氏の氏寺百済尼寺の存在が判明した。
ともかく前期、後期と難波宮については、長期間に道路、建築物の合間縫っての発掘、工事らの偶然の発見にしか期待は寄せられない遺跡の発見である。