『江戸泰平の群像』10・牧野 康成(まきの やすなり)(1555~1610)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・譜代大名。徳川氏の家臣、はじめ三河国牛久保城主、のち大胡藩主初代。。 永禄9年(1566年)、牛久保城主であった父・成定の病死をうけて11歳で遺領を相続する。その際に一族牧野某(出羽守・成元また成真とも、同名保成の子)と遺領争いとなるも、徳川家康の承認と後援の結果、成元を退け相続に成功した[2]。争いの原因のひとつに康成が今川氏の人質として1両年(2年間)身柄拘束され(一説に吉田城で)、牛久保に不在であったことが挙げられる。徳川家康に仕えた後は、その東三河旗頭である酒井忠次に属し、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、家康の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、また家康の指示により天正年間は諏訪原城(遠江国)・興国寺城(駿河国)・柾戸城(伊豆国)・長窪城(駿河国)と諸城を在番し、家康の東海道平定戦に寄与した。その功績により、天正16年(1588年)4月までに従五位下右馬允に叙位・任官、この時の口宣で清和源氏を称姓した。また天正18年(1590年)、家康が関東に加増移封されると、上野国大胡に2万石の所領を与えられ、大名に列した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)が守る信濃国上田城攻めに参加した。徳川方の刈り田働き阻止をめぐる偶発的戦闘で、康成は友軍の危機を救援することを命じたが、これが城攻めにまで発展した。しかしこの城攻めは秀忠に無許可で、しかも結果は惨敗であったため、康成はその責を問われた。直接指揮をした部下の贄掃部を切腹させるよう命じられたが、康成は自ら責を負うとしてこれを拒否した。嫡男の忠成もこの命令に逆らい、贄らを伴い出奔したため大いに秀忠の怒りを買い、康成は上野国吾妻に蟄居処分となる。その後、慶長9年(1604年)に徳川家光が誕生したことによる恩赦で処分が解かれ、大胡藩2万石に戻った。ただしこの間、お取り潰しの状態ではなかった。この時より公事は、嫡子・忠成にまかせて大胡に閑居し、そのまま1609年(慶長14年)12月死去した。法名は月照院殿前典厩応誉栄感称徳大居士。葬地は群馬県前橋市堀越町の浄土宗養林寺。関ヶ原の合戦に遅参した徳川秀忠は、父・家康の怒りに触れ、また諸侯に対して恥をかいたが、軍令違反を犯し切腹を命じられた張本人である贄掃部は、なぜか紀州家の徳川頼宣に再仕官している。家康は、秀忠の遅参を、親子ではじめからもくろんだものだとの指摘がある。関ヶ原の合戦で、家康は外様を主力に使って戦う一方、譜代の家臣で編成された秀忠軍は、無傷で残そうとしたという(講談社プラスアルファ新書など)。しかしこの異説には、関ヶ原の合戦前夜は東軍と西軍の実力が伯仲していて、家康にそれだけの余裕があったとは到底考えられず、また推論が飛躍しすぎているとの反論がある。家康が死亡した3ヶ月後に、秀忠は大胡牧野家に3万石の加増を命じたが、移封先の長峰には着任しないままさらに加増されたともいい、結局大胡から越後長岡に知行を3倍に増やして栄転した。また康成の庶子の儀成(備後守成貞の父)の旗本の召し出しが新知をもって行なわれたり、その後も牧野家はたびたび加増された。いずれにせよ牧野康成は、秀忠の責任要員としての責務を全うして、後に加増を受けたとする。康成は酒井忠次の娘婿である。正室の於虎(鳳樹院)は評判の美人で、父親である忠次は大変可愛がっていた。康成はそれを聞いて自らの妻に欲しいと言い出したが、忠次は即座に拒絶した。理由は「右馬允(康成)は大胆者だが、悪い目が出れば謀反を致し、三河一国も手に入れるかも知れぬ男。そのような者に大事な娘を遣わすことはまかりならぬ」というものだった。しかし主君の家康がそれを聞きつけて「そのような器量者ならば、そなたの娘を嫁にやって家来にせよ」と忠次を諭し、忠次も心を変えて娘との結婚を許したと伝わる。正室は酒井忠次の女(鳳樹院)。子は牧野忠成(長男)、牧野秀成(次男)、牧野儀成(三男)、娘(昌泉院、福島正則継室)、娘(永昌院、松浦隆信正室)、娘(慶台院、家臣・牧野正行室)、娘(馨香院、家臣・牧野正成室)の3男4女。

 

 

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