「平安京物語」30” 昌泰の変(道真失脚)“昌泰4年(901)正月25日、右大臣菅原道真を大宰府権師に左遷することを命じる詔が発せられた。道真は身分の低い家柄より出て右大臣まで上り詰めたながら、身分をわきまえず、宇多天皇の信任を裏切り、醍醐天皇を廃して自分の娘が嫁いでいた天皇の弟斉世親王を皇位につけようとした。兼ねてより熱い信任を寄せていた宇多天皇はこの報をしるや直ちに内裏に向かい、処分の取り消しを要請しょうとしたが、内裏の警備の者のが上皇の車を遮り、蔵人頭藤原菅根も上皇の参内を取り次ごうとしなかった。上皇は終日庭に座り込み天皇に謁することを求めたが、夕方になって空しく帰っていった。道真は宇多天皇の抜擢により異例の出世を遂げて、醍醐天皇の即位後朝廷では藤原時平に次ぐ地位を保っていたが、宇多上皇の後ろ盾を失ったので不意に失脚させられた。しかも公卿たちからも妬みがあってか道真に対して反感が高まっていった。宇多上皇が醍醐天皇に譲位する際に、天皇に上申することや裁可を請うべきことは時平と道真に執り行わせるように公卿たちに命じた。これを聞いた公卿たちは政務を放棄しした。これを聞いても公卿たちの反発が窺い知れた。道真の最大の支持者の宇多天皇が出家したのを好機として失脚させた。道真にとっても突然の出来事に、打つ手がなく一言の弁明もなく筑紫に下向していった。道真の長男は高視は土佐に、景行は駿河に、兼重は飛騨に、淳茂は播磨にそれぞれ流されていった。</span>