「西国四十九薬師巡り」般若寺・奈良市北部・奈良坂に位置する真言律宗の寺院。山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られる。般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきった地点に位置する。般若寺門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、大和(奈良県)と山城(京都府)を結ぶ、古代以来重要な道であった。この道はまた、平城京の東端を南北に通っていた東七坊大路の延長でもある。般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確なところは不明である。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、奈良時代からこの地に寺院が存在していたことは確かである。寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平七年(735年)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したというが、これらを裏付ける史料はない。別の伝承では白雉五年(654年)、蘇我日向臣が孝徳天皇の病気平癒のため創建したともいう。「般若寺は聖武天皇が創建し、平安時代に僧観賢によって再興された」とする説を採用している。その後平安時代末頃までの歴史はあまり明らかでない。治承4年(1180年)、平重衡による南都焼き討ちの際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。廃寺同然となっていた般若寺は、鎌倉時代に入って再興が進められた。寺のシンボルとも言える十三重石塔は僧・良恵(りょうえ)らによって建立され、建長五年(1253年)頃までに完成した。その後、西大寺の僧・叡尊によって本尊や伽藍の復興が行われた。叡尊は建長七年(1255年)から般若寺本尊文殊菩薩像の造立を始め、文永四年(1267年)に開眼供養が行われた。この文殊像は獅子の上に乗った巨像で、完成までに実に十二年を要した。その後、延徳二年(1490年)の火災、永禄十年(1567年)東大寺大仏殿の戦いでの松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失した。延徳の火災では前述の叡尊によって供養された文殊菩薩像も焼失している。明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けた。近代に入ってから寺は荒れ果て、無住となって、本山の西大寺が管理していた時代もあったが、第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備された。
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