『戦国時代の群像』184(全192回)蒲生秀行(1583~1612)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。陸奥会津藩主。天正11年(1583年)、蒲生賦秀(氏郷)(数年後「氏郷」に改名)の嫡男(次男あるいは長男)として生まれる。生来から病弱で、氏郷は同じ幼名を与えた鶴千代を京都の南禅寺に入れて僧にし、修行させて武将の任に耐えられるようになったら世継ぎとし、耐えられないようなら僧として過ごさせると戒めていたという。文禄4年(1595年)、父・氏郷が急死したために家督を継ぐ[1]。この時、羽柴の名字を与えられた。総石高の過小申告について遺領相続問題が起こる。太閤・豊臣秀吉の下した裁定は、会津領を収公して、改めて近江に2万石を与えるというもので、相続を認めながらいったん所領を収封するとする説[3]と、相続を許可した後に老臣の不正が発覚したため、その所領を没収し、堪忍分として近江に2万石を与えるという説[4]がある。徳川家康は鶴千代の岳父であり秀吉にとって追及の狙いが家康にある。置目に対して蒲生の不正を摘発し、処分の執行に対して有力大名の同意が得られたら、後見役の家康の責任追及に踏み込む目算であったが、知行目録の過少申告は他の大名にとっても微妙な問題であり前田利家や毛利輝元から自重を促された。処分の撤回を決めたのは、この件で家康の問責が無理と判断されたからである。秀吉の集権体制構築の狙いが当時はまだ有力大名の意向を探る段階にあったことを物語っている。関白・豊臣秀次が会津領の相続を認めたことにより、一転して会津92万石の相続を許されたとされるが、これは明らかな誤りである。秀次には天下の統治権が与えられておられず、秀吉の政務の忠実な執行機関としての役割しか担っていなかったことが明らかだからである。その後、秀吉の命で徳川家康の娘・振姫を正室に迎えることを条件に、改めて会津領の相続が許されたが、まだ若年の秀行は父に比べて器量に劣り、そのため家中を上手く統制できず、ついには重臣同士の対立を招いて御家騒動(蒲生騒動)が起こった[1]。慶長3年(1598年)3月、秀吉の命令で会津92万石から宇都宮18万石で移封された。理由として、先述の蒲生騒動の他に、秀行の母すなわち氏郷の正室が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが姫が尼になって貞節を守った事を不愉快に思った説、秀行が家康の娘(家康の3女の振姫(正清院))を娶っていた親家康派のため石田三成が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説もある。秀行は武家屋敷を作り町人の住まいと明確に区分し、城下への入口を設けて番所を置くなどして城下の整備を行ない、蒲生氏の故郷である近江日野からやって来た商人を御用商人として城の北側を走る釜川べりに住まわせ、日野町と名づけて商業の発展を期した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで上杉景勝を討つため、徳川秀忠は宇都宮に入った。その後、秀忠も家康も西に軍を向けて出陣したため、秀行は本拠の宇都宮で上杉景勝(秀吉に旧蒲生領の会津を与えられた)の軍の牽制と城下の治安維持を命じられた。戦後、その軍功によって、没収された上杉領のうちから陸奥に60万石を与えられて会津に復帰した。秀行は家康の娘と結婚していたため、江戸幕府成立後も徳川氏の一門衆として重用された。慶長12年(1607年)、松平の名字を与えられた。しかし、会津地震や家中騒動の再燃なども重なり、その心労などのため、慶長17年(1612年)5月14日に死去した。享年30。跡を長男の忠郷が継いだ。