「西国四十九薬師巡り」薬師寺・、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基は天武天皇、道昭、義淵である。薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京の地に造営が開始され、平城遷都後の八世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、創建には『日本書紀』天武天皇九年(680年)天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。持統天皇二年(688年)、薬師寺にて無遮大会という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇二年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。その後、和銅三年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転した。移転の時期は長和四年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老二年(718年)のことであった。ただし、平城薬師寺境内からは霊亀二年(716年)の記載のある木簡が出土していることから、造営は養老2年よりも若干早くから始まっていたとみられる。『扶桑略記』天平二年(730年)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。平城京の薬師寺は天禄四年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。天禄四年の火災では金堂、東塔、西塔は焼け残ったが、講堂、僧坊、南大門などが焼けた。発掘調査の結果、西僧坊の跡地からは僧たちが使用していたとみられる奈良時代や唐時代の陶磁器が多数出土しており、天禄四年の火災の際に棚から落ちて土中に埋もれたものとみられる。二〇世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代後期仮再建の金堂、講堂が建ち、創建当時の伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。三重塔は鎌倉時代の遺構など多くの文化財を有いしてる