『戦国時代の群像』172(全192回)「浅野幸長」(1576~1613)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。紀伊国和歌山藩(紀州藩)の初代藩主。天正4年(1576年)、近江国浅井郡小谷(現・滋賀県長浜市)に浅野長政の長男として生まれる。父は豊臣秀吉の正室・ねね(高台院)の義弟で、豊臣政権では五奉行の1人となっている。天正17年(1589年)、従五位下・左京大夫に叙任される。天正18年(1590年)、小田原征伐で初陣し、父とともに岩槻城を攻める。この頃、前田利家の五女(母はまつ)・与免と婚約するが、嫁ぐ前の文禄2年(1593年)に早世した。文禄2年(1593年)、文禄の役では、朝鮮へ渡海して西生浦に拠る。同年、父とともに甲斐国府中21万5千石(一説に長政に5万5千石、幸長に16万石)を与えられる。しかし、文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次の失脚に連座し、能登国津向に配流されたが、前田利家・徳川家康のとりなしもあり、まもなく復帰した。慶長2年(1597年)、慶長の役では、再び渡海して西生浦に着陣し、その後蔚山城(現在の蔚山広域市内)に拠って明将・李如梅の軍と戦った。慶長3年(1598年)、秀吉の死去に伴い朝鮮より撤退し、その後は黒田長政・加藤清正・福島正則らの武断派(七将)に与して、五奉行の文治派・石田三成らと対立。慶長4年(1599年)、前田利家の死後に他の武断派らと共に石田三成を襲撃した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属し、池田輝政らと岐阜城を攻略、9月15日の合戦の当日には南宮山の毛利秀元、長束正家などの西軍勢に備え、垂井一里塚付近に陣を構えた。戦後、紀伊国和歌山37万6千石を与えられる。同年、従四位下・紀伊守に叙任された。慶長8年(1603年)、豊臣姓が確認される[1]。慶長16年(1611年)、加藤清正と協力して二条城における家康と豊臣秀頼の会談を実現させ、ともに警備を行った。慶長18年(1613年)8月25日、和歌山で死去した。享年38。墓所は、和歌山市吹上の曹源山大泉寺と和歌山県伊都郡高野町の高野山悉地院。幸長には男子が無かったため、死後、次弟の長晟が家督を継いだ。</span>