自分史というものがある。個人レベルの歴史だが、「終活」の一環として高齢層に関心が高まっているという。ただし自費出版なので、費用はけっこう嵩む。

 

意外に多かった外地にいた人たち
 たまたま何冊かを読む機会があった。大半の人は、戦争をくぐってきている。
 すると共通して体験しているのが、空襲による日常的な死の恐怖と食糧難による餓えである。
 それから外地にいた人たちの意外の多さ、である。
 それで痛感するのは、満州・朝鮮・樺太にいた人たちと台湾に暮らしていた人たちとの大きな運命の差である。
 満州・朝鮮・樺太にいた人たちは、時々、本ブログで言及しているが、終戦後に待ち受けた厳しい運命であった(写真=戦前の満州、ハルピンのキタイスカヤ通り。帝政ロシアの建設した街なので、看板などにキリル文字が目立つ)。

 

 

引き揚げでも多くの人名が失われた満州入植者
 満州にいた男性は、老人を除けばほぼことごとく関東軍に徴兵されていたので、侵攻してきたソ連軍に捕らえられ、シベリア・中央アジア送りとなった。いわゆる「シベリア抑留」である。
 約70万人もの兵士たち(一部は満州国公務員、市民、女性もいた)が抑留され、うち約10万人が極寒と饑餓・超重労働の中で亡くなった。
 兵士でない家族たちの運命も酷薄だった。女・子どもいえども、樺太でも満州でもソ連軍の無差別攻撃で殺されたり、逃亡の最中に餓死した。命があっても、着の身着のままで流亡したのである。幼い子たちは、栄養失調で死んだ。
 攻撃し、追いかけるソ連兵は、さながら鬼畜の如きであった。

 

食糧に困ることはなかった台湾在住者
 対照的なのは、台湾在住の日本人であった。台湾はコメの二期作が広く行われていたから、戦中も戦後も食糧に困ることはなかった(写真上から戦前の台北駅と台北の繁華街、そして台湾総督府。そしてが旧台湾総督府の姿を現在も残す台湾政府総統府)。

 

 

 

 

 終戦後に進駐してきたのは、国民党軍であった。ソ連軍や共産党の紅軍でなかったのは幸いだった。戦後、多少、治安は悪化したが、学校は普通に運営され、国民党軍に物を徴発されることも少なかった。

 

占領者がスターリニストであったかなかったかの違い
 終戦の翌年の3月、在台湾日本人はともかくも安全に帰国船で帰還を果たした。携行品は柳行李1個のみという制約があり、家産はほぼすべて残置を余儀なくさせられたけれども、「引き揚げ」までに命を落とす局面など全くなかった。
 当時の子どもたちであった現在の80代の層は、今も台湾の暮らしを懐かしむ。それだけ酷薄ではなかった「引き揚げ」であった。
 同じ敗戦国民でも、これは天地の差である。
 外地の日本人が終戦で体験した違いを、僕は自分史の中で目にしたのである。それは、端的に言えば占領者がスターリニストであったか、そうでなかったかの違いだったのだ。

 

昨年の今日の日記:「『従軍慰安婦』問題、韓国の道理なき要求を排し、日本の基本原則を堅持した恒久的解決を」