今から20万年前くらい前にアフリカに出現した現生人類ホモ・サピエンスは、19.5万から15万年前に東アフリカに姿を現した。

 

シミュレーションでは出アフリカは4回の移住の波
 化石証拠、考古学的証拠、さらに遺伝学的証拠から、彼らが出アフリカし、レヴァント地方からアラビア半島に進出したのは、12万~9万年前頃と分かっている。しかしそこからさらに先への拡散は、やっと6万年前頃にならないと始まらなかった。
 その原因はいろいろと考えられるが、後期更新世の変動する気候も要因の1つ、と考えられる。
 アメリカ、ハワイ大のA・ティンマーマンとT・フリードリッヒは、イギリスの科学週刊誌『ネイチャー』10月6日号に、過去12.5万年にわたる地球軌道の変化による気候および海水準の大規模な変動の影響を加味して、初期人類の分散をモデル化した結果を発表した。
 このモデルのシミュレーション結果は、全般的なホモ・サピエンスの拡散と考古証拠と化石証拠とよく一致し、10.6万~9.4万年前、 8.9万~7.3万年前、5.9万~4.7万年前、4.5万~2.9万年前のアラビア半島とレヴァント地方の氷河期移住の波のあったらしいことを浮き彫りにした。

 

5.9万~4.7万年前の第3波
 上記の結果から、中東へのホモ・サピエンス進出は1回ではなく、少なくとも4回の波があったことが分かったが、そこからさらに先、すなわち最初のアナトリア地方から東ヨーロッパへと東アジア・オーストラリアへの移住は、5.9万~4.7万年前の第3波が関与したことが示唆された。
 地球軌道変化の年代スケールでの全球的な気候変動がホモ・サピエンス集団の移動に重要な役割を果たしたのに対し、1000年スケールでの急激な気候変動の影響はより局地的なものに限られていたことも示している。

 

追悼 ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督死去
 ポーランドの不世出の映画監督アンジェイ・ワイダ氏が去る10月9日、死去した。90歳だった(写真)。

 

 

父を殺したカティンの森虐殺事件の映画も制作
 ワイダ監督と言えば、晩年の『カティンの森』は忘れられない作品だった(写真=映画『カティンの森』から)。自身の父親もスターリン・ソ連のNKVDによるカティンの森虐殺事件で殺された記憶から、ポーランドに対するスターリンの犯罪を描いた(10年1月11日付日記「ワイダ監督の『カティンの森』が描くスターリンによる2つの歴史の偽造:ポーランド国内軍、赤軍、独ソ不可侵条約」、10年1月6日付日記「ベトナム、カンボジアの旅:アンコール遺跡群⑪=タ・プローム、崩壊した寺院(上)とついに観られた映画『カティンの森』」、08年1月2日付日記「カティンの森の虐殺を描いたワイダ監督の新作映画が完成:スターリン、独ソ不可侵条約」を参照)。

 

 

 デビュー作の『世代』、それに続く『地下水道』、そしてポーランドの対スターリン・ソ連地下抵抗運動を描いた代表作『肺とダイヤモンド』と共に、抵抗3部作と呼ばれる一連の作品で、国際的にも不動の地位を確立した。
 81年には民主化を率いた自主管理労組「連帯」を取り上げた『鉄の男』でカンヌ映画祭の最高賞、パルムドールを獲得した。
 ポーランド共産政権を打倒し、ポーランドの民主化の達成に芸術面から果たした功績は大きかった。

 

親日家でクラクフに日本博物館「マンガ」を設立
 親日家としても知られ、87年に受賞した京都賞の賞金を基金に、古都クラクフに日本美術技術博物館「マンガ」を設立した。
 僕は2年前の夏、訪れることはかなわなかったが、同博物館(写真)をヴァヴェル城からヴィスワ川越えに遠望したことがあり、懐かしい。

 

 

昨年の今日の日記:「日本郵政グループ3社の上場決まる、株式の募集が始まるが投資家は買う、買わない?」