リトアニア、シャウレイ近郊の「十字架の丘」は、大平原の中にあった。夏の絶好の季節で、緑の平原のあちこちにワイルドフラワーが咲いている(写真)。


ワイルドフラワー


ソ連併合で粛清の嵐へ
 広いバス停から、朝だというのに強い日差しが照り付け、その下を少し歩く。道のずっと先が、「十字架の丘」である(写真)。


十字架の丘遠望

 前回に述べたように、誰が始めたというわけでなく、この小さな丘に十字架を立てるようになった。スターリン時代、特にドイツ占領からの解放もつかの間、再びスターリン・ソ連の支配下に入ると、かつてドイツに占領されていたバルト3国に、粛清の嵐が吹きすさんだ。
 1940年にソ連に軍事力で併合された直後も、ソ連に抵抗する人たちは捕えられ、銃殺やシベリア流刑となったが、これは1万人程度だったと考えられている。


スターリンの戦後の大テロル、そしてそれへの不屈の抵抗
 ところが戦後に再度、ソ連支配下に入ると、ドイツ軍に協力したという濡れ衣を着せられ、10万人規模の新たな大粛清が始まった。バルト3国で合わせると、粛清された無辜の民は、数十万人にも達した。
 そして逮捕され、シベリア流刑になった肉親の無事を祈って、十字架の丘への十字架献納が激増した。
 リトアニアの共産主義者どもは、モスクワの党幹部の怒りをかわないように何度もブルドーザーで十字架をなぎ倒した。1961年には約5000基が、1975年には約1200基が破壊されたという。
 しかし彼らが去ると、夜陰にどこからともなく集まってきた人々の手で、再び十字架が立てられた。
 そしてリトアニアがスターリン主義の軛から脱した1990年には5万基を超えていた。


カトリックに敗れたスターリン主義
 スターリン主義者どもへの隠然たる抵抗である。おそらく恐怖を感じつつ、であったことだろう。もし見つかったら、その人自身がシベリア流刑になる。その人たちの心に平穏をもたらし、精神的な支えとなったのが、カトリックであった。
 ポーランドでもそうだったが、スターリン主義はカトリックに敗れたのである。
 丘に近づいた。ひときわ大きな十字架が、我々を迎えてくれる。磔刑されたイエスの表情は、死者のそれだった(写真)。それを見ると、スターリン主義支配は、2度とごめんだというリトアニア国民の決意が感じ取れる。


十字架の丘接近


リトアニア国民の抵抗精神とはるかに遠い平和ボケした日本
 平和ボケの末に、「日本が戦争に巻き込まれる(この脅し文句は、これまで何十度聞いたことか!)」とデマを喚きつつ、安全保障関連法案に反対のデモをする連中には、リトアニア国民の抵抗など想像もつかないに違いない。
 安保法案は、共産党一党独裁の中国に支配され、日本が「リトアニア化」することへの防波堤なのである。


昨年の今日の日記:「南部アフリカ周遊:ヴィクトリア・フォールズ探訪記㉑;欧米観光客向けの華やかさはここだけ」