去る1月27日は、フランスのパリで、南・北ベトナム両政府、アメリカ、南ベトナム民族解放戦線との間でベトナム戦争終結を約束したパリ和平協定が調印された40周年の記念日だった。1973年のこの日、和平協定が調印され、太平洋戦争後間もなく始まったインドシナ戦争から通算して、30年弱も続いた戦争の終結への道が開かれた。


40周年と符節を合わせたように届いたメッセ
 同協定調印を受け、3月、アメリカは派遣軍をベトナムから直ちに撤退、その2年後の4月、アメリカの支えを失った南ベトナム政権は北ベトナム軍の侵攻の前に敗退した。
 この記念日と符節を合わせたように、長い間、忘れていた名前と曲を思い出させてくれたメッセージが届いた。ブログのある読者からのもので、哀愁を帯びた曲で気になっていた「カスバの女」の意味が分かった、という感謝のメッセージだった(「カスバの女」については、10年4月16日付日記:「『アルジェリア独立戦争』の悲恋を歌った『カスバの女』を大ブレークさせた時代背景:ベトナム反戦運動、フランツ・ファノン、OAS」を参照)。
 アルジェリア、イナメナスの天然ガス関連施設の武装殺人集団「覆面旅団」による日本人拉致・虐殺事件で「カスバの女」に触れたが、そこからこの歌を懐かしく思い出し、ついでに今、「フランシーヌの場合」も思い出しているとあった。


フランシーヌ・ルコントさんの焼身自死
 「フランシーヌの場合」――おそらく本日記の読者でこの曲と主題となったフランシーヌ・ルコントさんのことを知っている人は皆無に近い、と思う。この曲――反戦歌――が歌われたのは、今から44年も前であり、フランシーヌ・ルコントさんが亡くなったのも、その直前だったからだ。
 フランシーヌ・ルコントさん――30歳で焼身自死したフランス人女性である(写真)。


自費出版のリブパブリのブログ-フランシーヌ・ルコントさん

 この傷ましい自死が報じられた直後に、彼女を悼んで、当時の新進反戦フォーク歌手、新谷のり子さんが吹き込んだ「フランシーヌの場合」のレコードは、約80万枚も売れて大ヒットした(写真)。



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 彼女とその時代に触れる前に、この「フランシーヌの場合」の歌詞を、以下に引用しておこう。それが、フランシーヌ・ルコントさんについて触れる枕として最適だからだ。


「フランシーヌの場合」全歌詞
1番 フランシーヌの場合は
   あまりにもおばかさん
   フランシーヌの場合は
   あまりにもさびしい
   三月三十日の日曜日
   パリの朝に燃えたいのちひとつ
   フランシーヌ
2番 ホントのことを言ったら
   オリコウになれない
   ホントのことを言ったら
   あまりにも悲しい
   三月三十日の日曜日
   パリの朝に燃えたいのちひとつ
   フランシーヌ
 (セリフ)
   Francine ne nous reviens plus.
   Pauvre carriére l'enfant perdu.
   Francine s'est abandonnée
   À la couleur de fraternité
   Au petit matin du 30 mars.
   C'est dimanche.
   Une vie s'enflamme pour son éternité
   À Paris, Francine
3番 ひとりぼっちの世界に
   残された言葉が
   ひとりぼっちの世界に
   いつまでもささやく
   三月三十日の日曜日
   パリの朝に燃えたいのちひとつ
   フランシーヌ
4番 フランシーヌの場合は
   私にもわかるわ
   フランシーヌの場合は
   あまりにもさびしい
   三月三十日の日曜日
   パリの朝に燃えたいのちひとつ
   フランシーヌ
   フランシーヌ
   フランシーヌ


拡大パリ会談場から200メートル先の路上
 この歌詞にあるように、当時30歳だった女子学生フランシーヌ・ルコントさんは、1969年3月30日の日曜日の早朝、ベトナム戦争とビアフラ戦争の飢餓問題に抗議して、パリの広場で焼身自死した。
 自死の場所に選んだのは、後述する新聞記事によると、当時、アメリカ・南ベトナムと北ベトナム・南ベトナム民族解放戦線の拡大パリ会談の開かれていた会談場所からわずか200メートル先の路上だった(写真=パリ和平協定に調印するアメリカ交渉団団長のキッシンジャー大統領補佐官)。



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(この項、明日に続く)


昨年の今日の日記:「これで何十度目の失態か!? 前ボケ菅政権が震災後の重要会議の議事録を作らなかった罪」