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 今年は、不死の細胞であるHeLa細胞(ヒーラ細胞)の培養成功60年、そして元の持ち主であったアメリカの混血黒人女性ヘンリエッタ・ラックスさん(Henrietta Lacks=以下、敬称略)が子宮頸がんで亡くなって60年になるが、それについては、本年2月21日の日記「HeLa細胞(ヒーラ細胞)60年、人が死んでもがん細胞は今も永遠の生を生き続ける」で取り上げたことがある。

培養総量の重さは5000万トン、長さは1億キロメートル超
 HeLa細胞(写真上)とは、子宮頸がんで命を落としたヘンリエッタ・ラックスのがん細胞のことである。ヘンリエッタから切り取られたわずかの切片から培養・増殖され、世界中の大学、病院、製薬会社などに無償、または安価で配布された。
 増殖されたHeLa細胞の総量を秤に乗せると、5000万トンを越え(日本が輸入する年間食料全体に匹敵する)、すべて平面につなげると1億キロメートルを優に越える。ポリオワクチンの製作その他、医学・生物学上に果たしてきたHeLa細胞の役割は大きく、現代医学の恩恵を受けている我々は、HeLa細胞に足を向けては寝られないのだ(詳細については、上述の日記を参照)。
 最近、そのHeLa細胞をテーマに、不幸な死を遂げたヘンリエッタとその家族の数奇な運命とともに徹底的に調査、掘り起こした優れた科学ドキュメント『不死細胞ヒーラ――ヘンリエッタ・ラックスの永久なる人生』(レベッカ・スクルート著、中里京子訳=写真中央=背の写真の女性がヘンリエッタ)が講談社から刊行され、さっそく図書館にリクエストして読んだ(リブパブリは本をなるべく買わないように努めているので)。

貧困、無教育で、高い犯罪率
 読了して期待以上に、面白かった。HeLa細胞は、あまりにも旺盛な増殖力のために、他の培養細胞まで広範囲に汚染していた事実などを、本書で初めて知った。
 また混血黒人であったヘンリエッタの亡くなった時代、アメリカでは人種差別が公認された状態だったので、ラックス一族が貧困にあえいでいたことも本書で知った。貧困のために教育を受ける機会も乏しく(ヘンリエッタ自身、6年までで公教育をやめている)、それだけに14歳で長男を出産するなど子だくさん(31歳で亡くなるまでにヘンリエッタは5人の子持ちとなった)となり、やはり貧困に沈む。
 貧困で教育を受ける機会がないとなれば、犯罪に走ることも多い。ヘンリエッタの3男は後に殺人犯となったし、次女デボラの孫も犯罪を犯す。驚くべき犯罪率であり、それだけに一族が受けてきた苦難は、胸をうつものがある。
 ちなみに2月21日付日記で、ヘンリエッタの写真を2枚、載せているが、本書にも同じ写真、そしてこの2枚だけしか載っていない。これしか、残存していないのだと思われる。HeLa細胞が医学に果たした功績の大きさに比べれば、持ち主の素顔は、この2枚しか残されていないのだ(2月21日付日記の写真中央は、1945年頃、ヘンリエッタが25歳頃の写真だが、隣に写っているのは夫君のデイヴィッド・ラックス)。

先端治療だったラジウム放射線療法を受けたが
 これほど克明に関係者に取材し、埋もれた過去を掘り起こした科学ドキュメントは、リブパブリには久しぶりであった。訳者にも恵まれた本書の出来は、まず1級と呼ぶにふさわしいだろう。この本が、不登校で普通公立高校1年でドロップアウトした科学嫌いの普通の女性(レベッカ・スクルート=写真下)の手で書かれたとは、信じられないほどだ。
 さて本書でちょっと興味を引かれたのは、ヘンリエッタ・ラックスがジョンズ・ホプキンス病院で受けた治療である。
 ジョンズ・ホプキンス病院と同大学メディカルスクールは、現在では全米でも有力なメディカルセンターとなっているが、当時は人種差別制度のもとで貧困にあえぐ黒人たちが唯一、無料で治療を受けられる病院だった。ヘンリエッタも、当然、同病院を受診する。
 当時、がん治療はまだ黎明期であり、彼女が受けられた最良の治療は、当時の上皮性子宮頸がん(後に上皮性ではなく、腺がんであったことが判明)患者がほぼ例外なく受けたラジウム放射線療法だった。強力な放射線でがん細胞を焼き殺す療法だが、1951年という早い時期にラジウム放射線療法を受けられたことは、ジョンズ・ホプキンス病院の良心を体現している。なぜなら当時利用できる唯一の放射線源だったラジウムは高価で、それゆえ先端治療だったラジウム放射線療法を貧しいヘンリエッタにも施したからである。

強い放射線で関係者もがんで命を落とした
もっともがん細胞を強力な放射線で焼き殺すラジウムだけに、健常者もその放射線のために正常細胞からがん細胞が誘起されて、がんにかかった(ラジウム発見者の有名なキュリー夫妻については後日にもう少し詳しく触れる)。
 ラジウム放射線療法を開発したハワード・ケリー医師は、フランスに赴いてキュリー夫妻と会い、ラジウムを手に入れたが、彼に付いていった助手の研修医はがんで死んだ。何とラジウムをポケットに入れて持ち帰ったからだ。また、ヘンリエッタのラジウム照射治療に用いたブラック・プラークというラジウム封入ガラス管の発明者であるブラック医師も、後にがんで亡くなる。いずれも放射線障害だった。
 だがヘンリエッタのがん細胞は、そのような強力な放射線を出すラジウム照射でも制圧されることはなく、ヘンリエッタの全身をがん化させて最終的に宿主を殺してしまうのである。遺族が見た薄い褐色のヘンリエッタの肌は(彼女は混血だった)、ラジウム放射線によって真っ黒に焼けこげていたという。

医学に貢献したが、一族は貧しく
 それほどの強力な増殖力を持ったがん細胞であってみれば、同大病院の病理学者であるジョージ・ガイによりヒト細胞として初めて培養増殖されたのも当然かもしれない。それまでガイは、20年来もヒト細胞の培養に失敗し続けていたのだ。
 世界中の製薬会社、医学者、生物学者の研究室に無償で贈られたHeLa細胞が医学の発展に貢献したことは疑いない。それでいてヘンリエッタとその一族が顕彰されるまでには数十年の歳月が必要だったし、一族は今も貧しいのである。
 ちなみに著者のレベッカ・スクルートが取材を始めた10年ばかり前、墓地にはヘンリエッタの墓標すら存在しなかった。一族の遺体が埋葬された墓地のどこに埋葬されたのか、場所が誰も知らなかったのだ。
 次女デボラの言葉が巻頭に書かれているが、その一節は深く考えさせられる。「けど、もしあたしらの母さんの細胞がそんなに医学に役立ったんなら、なんでその家族には医者にかかる余裕がないんだろうって、いつも思う」。
 HeLa細胞の培養された時代、細胞には特許も認められず、患者と家族に対する権利が認められていなかったのである。
 また、ヘンリエッタの家族がHeLa細胞の存在を報道で知ったのは20年以上も後のことだったというのは、当時の黒人の置かれた環境を想像させるに十分なエピソードである。
 読者には、ぜひ一読を勧めたい良書である。

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