kawanobu日記/ようやく訪れられた安重根義士記念館参観記(上);ジャンル=現代史、紀行 画像1

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 ソウル滞在3日目の午後は、新装なった安重根義士記念館である。前回はまだ建設中で、外からしか見られなかったものだ(9月5日付日記「主目的2つを達せられなかった韓国、ソウル旅行だが、旅行客に徹底した『おもてなし』精神に感動」、及び9月7日付日記「南山公園の朴正熙大統領名の安重根顕彰碑とNソウル・タワーへ」を参照)。戦争記念館同様、ここも無料だった。

入り口の御影石の壁一面に手形付きの遺墨コピー
 それはいいのだが、足の便が悪い。南山の中腹にあり、地下鉄最寄り駅からやや遠い。タクシーに乗っても、館のエントランス前に着けてくれず、前と同様に坂の下で降ろされる。
 入り口までは、やや急な坂道を数分登らねばならない。そこで、戦争記念館見学でくたびれた体にむち打ち、坂を登った。すると、広場に9月に見たような安重根記念碑の林立が目についた。
 ところがその手前にあった安重根の大きな銅像が、前と違っている。前の方が立派だったように思うのだが(前記9月7日付日記「南山公園の朴正熙大統領名の安重根顕彰碑とNソウル・タワーへ」の写真参照)。
 新館となった記念館入り口は地下1階である。そこにたどり着くまでのアプローチの黒御影石の壁には、安重根の手形を押した遺墨の複製が焼き付けられている。能筆の漢文で、知識人としての安重根が偲ばれる。しかしなぜ手形だろうか? しかも何となく、どこか違う。
 その理由と違いは、館内の展示を見て初めて分かった。

伊藤博文暗殺の年の旧暦元日、断指して韓国独立を盟約
 地下1階の広いフロアには、安重根の巨大な座像が「大韓獨立」と大きく書かれた太極旗を背に鎮座している(写真上)。この太極旗も、入る時は全く気にも留めていなかったのだが、入館してから意義が分かる。
 順路に従って見ていくと、所々に日本語の説明プレートもあり(だが大部分はハングル)、知らない日本人にも安重根の人となりが多少は理解できるようになっている
 この展示で初めて知ったのが、館の入り口に林立した石碑と展示品の揮毫の掛け軸に必ず添えられていた手形の意味である。9月に訪れた時、石碑の揮毫の手形は見ていたが、気がつかなかった。なんと左手の薬指の第1関節から先がなかったのだ。
 これは、1909年2月7日(旧暦の元日で、この年の新暦10月25日にハルビン駅頭で伊藤博文を拳銃で暗殺する)、他の11人の同志とともに、韓国独立の決意を込めて断指血盟を結び、指を切り落としたからだった。安重根は、断指した後の流れ出る血で太極旗に「韓国獨立」の揮毫をした。入口の安重根座像の背後にかかっていた太極旗は、その時のもののコピーだった。

日本人検察官や憲兵も遺墨を保管
 おそらく植民地時代の間も、安の遺志を受け継いだ独立派の人たちによって秘匿されて伝えられたのだろう、本物と思われるどす黒く変色した字の大書きされた太極旗も展示されている。
 だから、入口のアプローチに、そして館内に掲示されていた遺墨で手形が付けられたものは、すべて断指後、伊藤博文暗殺の罪で処刑される翌3月26日までのわずか1年余の間に、主に獄中で書かれたもの、ということになる。
 後で知ったのだが、これらの遺墨の中には、私欲を離れた安の信念と人格に深く感銘した旅順法院検察官の安岡靜四郎や、旅順刑務所の安担当の特別憲兵で宮城県人の千葉十七などに与えたものもある。
 安岡に与えられた「國家安危勞心焦思」(写真中央の右の掛け軸)は、「国家の安全と危機に心を労じ思いを焦がす」という意味だが、これを贈られた安岡は、韓国独立の思いを込めた国事犯の遺墨をよくぞ保管し、日本に持ち帰ったものだ、と驚嘆を禁じ得ない。後に治安維持法が施行されるが、治安維持法下ではこのような反国家的な文書は、所持しているだけで逮捕される恐れがあったからである。
 この遺墨は、戦後に安岡の長女の上野俊子氏から韓国人研究者に献納され、この研究者が安重根義士記念館に寄贈した。

生涯、安重根の菩提を弔った日本人憲兵、千葉十七
 それは、憲兵だった千葉十七も同様だ。処刑までに安重根に接した千葉は、彼の気高い愛国の情にうたれ、安重根畏敬の念を深めた。安は、千葉に対して処刑の直前に「爲國献身軍人本分」(国家のために献身するは、軍人の本分なり)と書いた遺墨を贈って短い交遊の中での恩義に報いた(写真中央の真ん中の掛け軸)。
 千葉は後に故郷の宮城県に帰った後も、安の小さな遺影写真と遺墨を仏壇に供え、生涯、1日も欠かさず祈りを捧げたという。後に遺墨は韓国に返されるが、千葉の菩提寺のある栗原市大林寺には、この時の遺墨を複製した大きな安重根顕彰碑が建てられており、毎年秋に、安と千葉の慰霊祭が行われている(写真下)。
 日本人官憲もまた、安の思想とテロの罪は憎んでも、祖国を思う無私の信念と行動に共感を覚えたのだ。

韓国民の理解を得られなかった日本統治
 こうした固い決意と信念を抱き、植民地支配者の国民にも深い共感を与えたカトリック信者(安重根は1997年1月、19歳の時にカトリックの洗礼を受けた)を育ててしまったことは、日本の統治の大きな失敗の1つだったかもしれない。今も多くの人たちに日本統治を感謝されている台湾と大きな違いである。
 安に暗殺された伊藤博文は、遅れた朝鮮に日本の明治維新を再現させ、朝鮮近代化を願って統監となった。日本統治が教育の普及に力を注ぎ(識字率は劇的に上がった)、鉄道敷設やダム・コンビナート建設などインフラと産業の整備に努めても、安のように当時の韓国国民に日本による植民地統治は理解されなかった。清国に見捨てられた化外の地の台湾と異なり、曲がりなりにも朝鮮には王朝があったからだろう。もっとも後述の日記でも書いたことだが、日本が植民地化しなかったとしても、帝国主義の時代という当時の歴史背景からすれば、ロシアの植民地になっていたであろうけれども。
 なお安重根の伊藤博文暗殺の経緯と安重根に対するリブパブリ的評価、そして韓国を取り巻いた当時の極東情勢については、09年10月26日付日記「100年前のこの日に伊藤博文がハルビン駅頭テロで死去、真摯なテロリスト安重根の皮肉な歴史的役割」を参照されたい。
(この稿続く)