kawanobu日記/古代オリエント博物館に「オルメカ文明」展を見に行く、残酷な遺物の展示はなし 画像1

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 東京・池袋サンシャインシティにある古代オリエント博物館に出かけたのは、何年ぶりだろうか。今ここで「古代メキシコ・オルメカ文明展」を開催していて(12月19日まで)、メソアメリカ文明に関心がないわけではないので、観に行った(写真=会場入口)。展示は意外とあっさりしていて、参観時間は1時間半という見当で出かけたのだが、30分ほどで観覧し終わってしまった。

硬い翡翠製の磨かれた石斧は圧巻
 入り口に、サン・ロレンセ遺跡のオルメカ文明を代表する遺物である有名な巨石人頭像(写真中=先古典期前期=紀元前1000年頃)の模型がデンと据えられていて、そこから始まる展示会場は幸い空いていたので、せっかくの機会でもったいないと思い、もう1回、じっくりと観た。なおオルメカ文明は今から3600年くらい前から始まり、後のマヤ文明やアステカ文明にも多くの文化要素が継承されたメソアメリカ最初の文明である。
 見事なのは、メソアメリカ文明で珍重された翡翠製の石斧や仮面がふんだんに展示されていたことだ。翡翠は、別名「硬玉」とも呼ばれ、ダイヤモンドに次いで硬いと言われる。石で叩いても簡単に割れない。そこで、最も加工しにくい貴石の1つとされるのだが、その硬さのゆえか、あるいは多くは緑色の美しさのゆえか、翡翠加工品はメソアメリカ文明で高貴な人物の墓の副葬品など祭祀用品として盛んに製作された
 特にベラクルス州(メキシコ)のエル・マナティ遺跡(紀元前1600~同1000年)で、約200点もの翡翠製の石斧(先古典期中期)が出土しているが、そのかなりが展示されていたのは圧巻だった。硬い硬玉を、つるつるに磨いている。おそらく細かい砂を研磨剤に人が何年もかけて手で磨いたに違いない。したがって実用品ではなく、貴人の埋葬の副葬品だった。翡翠は、貴人の遺体を覆う経帷子にも用いられたし、この展覧会でも展示されているが仮面にも使われた。

球技場で使われた大きなゴム球
 マヤ文明の遺構として有名なものに「球技場」がある。今のスポーツとはかなり意味の違う球技が行われた所だが、そこで使われたゴム球の起源と思われる巨大なゴム球も興味深い。展示されていたものは、直径20センチくらいだったが、エル・マナティでは10~30センチのゴム球が8点発見されているらしい。
 中は中空ではないから重いので、球が直撃すれば大怪我をしたかもしれない。実際、当時の球技場で行われたのは戦争の代わりだったとも言われる。戦士が命がけで戦ったのである。

トウモロコシ農耕のもとの文明
 メソアメリカ最初の古代文明であるオルメカ文明は、メソアメリカ考古学では「先古典期」と呼ばれる時期にメキシコ湾南岸で開花した。マヤやアステカなどが盛期を迎えた時期は「古典期」(マヤの古典期は紀元250~900年頃)と呼ばれる。
 生業基盤となったのは、形成期に発展したトウモロコシ農耕であり、貴人を描いた頭像にはトウモロコシが形象化されている。なおメソアメリカ文明には、アステカも含めて家畜は1種もいない。
 南米のアンデスには、メソアメリカと独立に(ただ一部で交流はあった)文明が誕生するが、新大陸文明の奇跡は、旧大陸のシュメール文明やエジプト文明と、全く孤絶した中で独立に人類が文明を発展させたことである。
 そのメソアメリカ文明の特徴としては、トウモロコシ農耕の播種や収穫時期を知るために天文学が発達し、正確な暦と絵文字などが発明された。有名なものにマヤ暦があるが、その長期暦は紀元前3114年8月13日からスタートし、2012年(約2年後である!)12月23日で終わる。マヤでもアステカでも、これで1時代とされており、1つの世界の生成と終焉を表すという。

マヤの長期暦もオルメカかそれ以前に起源
 ここからマヤ長期暦はオルメカ文明以前に起源を有すると思われるのだが、その考えによればこの1時代は再来年まで続いているわけだ。
 昔からノストラダムスの大予言のように、必ず終末論を煽って金儲けするエセ著述家や浅薄なテレビ番組が流行ったが、再来年の12月23日に世界が終わると言いつのるインチキ予言者は、これを根拠にしているが、科学性は何もないので、念のため申し添えておく。
 ちなみに私が以前、アメリカ自然史博物館で実物大模型を見た巨大な「太陽の石」写真下=本物はメキシコ国立人類学博物館蔵)は、この1時代を支配する第5の太陽神「トナティウ」を生きながらえさせるためにアステカ文明末期に奉納されたもので、その暦が刻まれている。
 その5度目の生まれ変わりで、現代世界を支えるトナティウ神(中央に描かれている)を生きながらえさせるために、人は生きた心臓を捧げねばならないと信じられていた。その残酷な信仰のもと、アステカ帝国は周辺諸国に戦争を仕掛け、捕虜を得て生け贄にしてピラミッド神殿上で石台チャックモールに乗せた生け贄から生きたまま心臓を抉りだし、神に捧げていたのだ。

回転印章があるのに、車輪が発明されなかった不思議
 だからオルメカ文明においても、生け贄を抑えつけた上で乗せる石の「手術台」であるチャックモールも存在したはずだが、さすがにそれは展示されていなかった。チャックモールは、実物をアメリカ自然史博物館で見たが、むき出しのままさりげなく展示されていたけれども。
 その代わり、その儀式に使われた可能性もあるアスファルトの柄付きの黒曜石製ナイフが展示されていた。
 トラティ・ルコ遺跡で、シュメール文明に見られるような土製回転印章が出土していたのは意外だった。円柱型をしていて、転がして土器文様や身体彩色に用いられたと説明があるが、回転させる印章は発明されていたのに、新大陸ではメソアメリカでもアンデスでも、ついに車輪は発明されなかったのである。運搬用の家畜もいなかった。
 ティオテワカンなどの巨大ピラミッドは、人力だけで築造されたのである(09年5月16日付日記「ウマと人間、5000年のおつきあい:競馬、家畜化、遺伝子、ソリュートレ文化、シェーニンゲン」. を参照)。

昨年の今日の日記:「裏磐梯紅葉紀行①;久しぶりの快晴の五色沼湖沼群と猪苗代の街:毘沙門沼、柳沼、青沼、るり沼」