武田勝頼と伊予河野但馬守通重の関係 | やまざるのブログ

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武田勝頼と伊予河野但馬守通重の関係


伊予武田黒川家(通重)と安居但馬守の関係


寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789 - 1801年)に江戸幕府が編修した系譜集である。

(付出し人は、四郎左衛門通泰)


伊予越智氏 河野通重(みちしげ)通康・但馬守

  代々伊豫國に住し、通重がとき甲斐國にいたり、武田家につかえ、天正十年勝頼没落のち駿府においてめされて東照宮にまみえたてまつり、仰によりて先方を支配す。・・・


(十二年長久手の役に共奉し、十五年至仕す。文禄四年(1595)十月十八日武蔵國八王子において死す。年八十六。甲斐國一蓮寺に葬る。)妻は武田家の臣秋山籐左衛門某が女。  ホームページから



通郷(みちさと)  

   傳之蒸   父は通重  母は籐左衛門某が女。

(天正十五年家を継、甲斐國和戸のうちにをいて千七十俵を所務し、父が役をつとむ。十八年関東御入国ののち、甲斐國は豊臣家の有となるにより、本領を収められ、に月棒をたまふ。このとし北条陸奥守氏輝亡ぶといへども、なお残業あらむもはかりがたしとて仰をうけたまはり、武蔵國八王)・(一部未読あり)


*河野但馬守通重の子、河野傳之蒸通郷は但馬守を継がず「傳之蒸」を名乗る。


伊予武田・河野(黒川氏)系図から

13代目 黒川通矩(みちかね)別名:道轉。道信。山城守
子息:通俊(大野霊神社)。通重(天正12年4月27日没)。政長(幻城主)

14代目 黒川通尭(みちたか)・天文17年(1542)戌申12月3日没



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●長宗我部元春 別名:黒川通尭。通仁(みちたか)。肥前守。(河野系図から)

   子息:黒川宗太郎通長。対馬守通俊。美濃守通博(養子)。

   国親の次弟。兄国親・元親と不和になり永正5年(1508)土佐を出奔し、伊予に逃げた.
(父兼序は山本氏山田氏大平氏吉良氏に攻められ自害の時伊予に逃亡が正しいかと思う)

   この時、通矩と兄弟の縁を結び黒川元春と名乗った。

伊予にて黒川通矩の妹婿養子となり黒川土佐守通尭と改称して剣山城を築いた。

長男通長を壬生川攻めで、次男にして嫡男の通俊を戎能攻めにて失ってしまう。
河野氏の一族である正岡右近大夫通純の次男・通博を養子に迎え、跡を継がしめた。

長宗我部元春は土佐から伊予へ、義兄弟の次男通重は伊予から甲斐へ繋がっていた。

父の跡継ぎを長宗我部元春に譲って「通重」は甲斐に行って勝頼に仕えている点に注目。

通重は河野但馬守通重といって、勝頼の側近、近習衆横目衆、子供の教育係であった。







考 察



∴安居但馬守について、代々伊豫にいた河野氏で、「河野但馬守通重」が甲斐の武田信玄に仕え天正10年勝頼が没落の時、駿府の東照宮にいたが小田原の北条氏に仕えている、勝頼は此の人物に武田信豊の次男雅楽(がらく)達を託すが、武田家没落時73才と高齢で本人は八王子に留まり、子供か家臣に但馬守を継いだ人物に使わしたのではないか。

∴駿河湾には武田の海賊がいました、海賊の首謀者は土屋惣蔵昌恒ですから本人は天目山で討ち死にしますが、土佐の系図では(利根郡山分大谷に退き)から、一行は利根川又は富士川を下り鹿島か駿河から海賊船で四国に渡ったと思われます。

安居村に入り安居但馬守と呼ばれたのではと思います。兄が久万大除城攻めで亡くなって霊社が久万にあるそうです。愛媛県久万高原町経由もあるかも知れません。

その後、勝頼達は信重の故郷、西条あたりから山越え又は吉野川ルートで立川・空石を経て植田村西屋敷(城)・門田屋敷の比江山掃部助親興(国親の弟国康の次男・後継発言で切腹)屋敷に入り、転々として安居村に落着する。後大崎村へ出てくる。

∴勝頼の兄「信中・信之」は天正18年小田原征伐に参加していた長宗我部氏の海賊武士の中に参戦していた大将の池氏、その池氏から妻を娶る寺村助十郞(勝頼3男正晴の子)らが手引きして大崎村大藪に落ち延びたと思われます。

∴前後して諏訪から甲斐に至る武田一門一族が大勢で土佐に流れ着いたと想像できます。

時は天正10年、此から3年を費やして長宗我部氏は四国統一をほぼ成し遂げます。

共に活躍したはずです。甲斐の軍用金が此処でも活躍したのではないでしょうか。