20120320~

秦氏の行方について別の角度からも探ってみたい。

平林章仁氏著の「蘇我氏の実像と葛城氏」から秦氏の行方を見てみる。

以下平林氏の論旨を要約して記載する。


1雄略紀15年条に禹豆麻佐(太秦)を賜姓された秦酒公の本拠が大和にあったか太秦にあったか定かではないが、

欽明即位前紀には、即位前欽明が山背国紀伊郡深草の秦大津父を寵愛すれば必ず天下を取るであろうとの夢告で彼を探し求め、大蔵の職に任じたとある。

これから見ても秦氏は6世紀中葉以前にすでに山背に盤踞していたものと思われる。

おそらく秦氏と賀茂氏の葛城から山背への移住は一連のものであり、その時期は5世紀末から6世紀初頭のころではなかったかと平林氏は推察する。


2秦氏以外の渡来系集団の中にも葛城から山城へ移住したものたちがあった。

秦氏の祖の最初の渡来地と伝えられる葛上郡朝妻(御所市朝妻―葛上郡の丘陵地)は、今来村主、俾加村主、朝妻手人、朝妻金作ら、倭漢氏統括下の渡来系諸氏の本拠でもあったが、

元興寺伽藍縁起并流記資財帳塔露盤銘に見える「作金人」の四部首の一人、阿沙都麻首 未沙乃もここを本貫とした。


天平勝宝2年5月25日付正倉院文書(造東大寺司移)に見える「銅鉄工」の朝妻望萬呂も同族であろう。


新撰姓氏録大和国諸蕃条に、韓国の人、都留使主より出ずとある朝妻造は、朝妻首の後裔と見られる。

朝妻造の祖の都留使主は次の都留牙使主や都留木と同一人とされる。
末使主―百済国の人、都留使主より出ず
木曰佐―末使主と同祖、都留牙使主の後なり
木勝―都留木の後なり

これら末使主、木曰佐、木勝はいずれも山背国紀伊郡を本拠として、末使主と木曰佐は郡司級、木勝は郷長級の豪族であった。


私見

ここで見逃しできない記述が出現している。

詳しくは後述(後日)する予定だが、これらの人たちは百済国のツル、ツルキ(都留牙はツルガと表音しているが、牙は猪牙舟、牙歯などキとも発音される)という名の首長を先祖とするとしている。

渡来人の中にツル、ツルキという名を持つ人々がいたとすれば、祖の名を後の世の子孫が復活させたということもありうると考える。

古代に葛城をツルキとも呼称した可能性があることと併せて考えると、ツル、ツルキという苗字は氏族名、地名、神社名などからの由縁が考えられる。

ちなみに、
紀の半島記事には、ツル、ツルキ、カツラキに類似の音を持つ名前が出てくるので、
気がついた部分を記載しておく。


1)神功皇后49年荒田別を将として新羅を討たせた。そして荒田別らは加羅国ほか七国を平定、百済王と王子、荒田別、木羅斤資らがともに意流村(おるすき スキは村のこと )において会合した(今は州流須祇ツルスキという)。州はツと表音している。


2)仁賢天皇紀に日鷹吉士は高句麗から帰り、工匠 須流枳(スルキ)、奴流枳(ヌルキ)らを奉った。


3)新撰姓氏録左京諸蕃下の小高使主の祖は、名は 毛甲(モウコウ)、姓は加須流気(カスルキ)とある。


加須流気毛甲とは、高句麗本紀にある葛盧(カツロ)孟光(モウコウ)と同一人であろう。
高句麗本紀 長寿王24年に魏が燕を討った。燕王は高句麗王に救援を求め、長寿王は 葛盧(カツロ)孟光(モウコウ)に将兵数万を与えて出陣させ、燕の都は焼けたが、魏軍は勝てずに引き上げた。


末について 末は陶のことか?
木について 百済の王姓の一つだが?―木羅、木


3秦氏の祖の最初の渡来地という葛城の朝妻を本貫とする朝妻造同祖の末使主、木曰佐、木勝らが秦氏の移住後の本拠地である山背の紀伊郡に有力豪族として盤踞していたことは単なる偶然とは考えられない。

要するに、末使主、木曰佐、木勝ら朝妻造の同族も秦氏や賀茂氏と同じころ葛城から山背国紀伊郡に移住してきたのではないかと平林氏は考える。

木曰佐や木勝の木が山背国紀伊郡の紀伊であることは木勝を紀勝とも表記することから明らかである。
また葛城氏も紀伊国を本拠に対外関係に活躍する紀氏とはもともと親密な関係にあった。


4葛城磐之媛の伝承から


平林氏は古事記における下記の3点に注目。

1)皇后が木(紀)国へ行った目的を豊楽(とよのあかり)の御綱柏の採取と明記すること
2)三色に変わる奇しい虫(蚕)を飼養する筒木の韓人 奴理能美の家を筒木宮にしたと伝えること
3)筒木宮に派遣されたのが紀では異伝とされる丸邇臣口子であると伝えること。


1)磐之媛が紀伊国にいった背景

葛城臣氏の祖武内宿禰の母が紀氏の女性であっただけでなく、葛城の地に紀氏の同族が居住するなど葛城氏と紀氏・紀伊国とは深い結びつきがあった。


2)磐之媛が筒木宮に留まり、そこで死去したこと

これは葛城氏が山城国綴喜郡綴喜郷(京都府綴喜郡田辺町)に拠点を持っていたことを意味する。
葛城の賀茂氏の最初の移住地と伝える岡田の賀茂(相楽郡加茂町)がそこから木津川を少し遡った地であることも偶然ではなかろう。

この綴喜には息長氏も拠点を持っていた。息長帯比売、つまり神功皇后の母が葛城高額媛という葛城の地名を負う女性であるのも山背の綴喜で葛城氏と息長氏の交流があったと見れば理解しやすい。

平林氏は、息長氏の本来拠点が近江国坂田郡と考えておられ、坂田郡には朝妻郷(米原町)があり、この郷名は朝妻手人らが移住したことに基づくものとしている。そして朝妻手人が葛城から坂田郡へ移住したのも葛城氏と息長氏の関係を傍証するものとしている。



神功皇后の出身の息長氏は綴喜を本拠とする氏族であって、坂田郡の息長氏とは無関係であると宝賀寿男氏は考えている。


3)筒木の韓人奴理能美の家を筒木宮とした

葛城氏が山背南部の渡来氏族と早くから親しい間柄にあったことがうかがわれる。また、

紀伊国―難波―淀川・木津川―筒木―那羅山―倭(狭義の倭、纒向・磯城の辺り)―葛城高宮

という交通路の存在が想定される。

葛城氏は葛城から大和国宇智郡を経て紀ノ川沿いに南下する南路だけでなく、北路というべき上述の交通路も確保していた。

また那羅、倭の間は和珥(丸邇)氏の本拠地である。和珥氏は5~6世紀に多くの后妃を出し、息長氏と同じく王家の姻族として重きをなしていた。

この和珥氏との連携なくして、葛城の南山背、葛城間の交通路の確保は困難だったと思われる。

その両者の関係を示唆するのが、古事記で、筒木の宮に引きこもってしまった皇后の下に丸邇臣口子を派遣したと伝えることである。これは和珥氏と葛城氏が連携関係にあったと考えれば不思議ではないだろう。


以上を要約して平林氏は
1葛城氏は南山背の筒城に拠点を持っていた
2葛城氏は南山背の渡来氏族とも親しい関係にあった
3葛城氏は紀伊~葛城の交通路を確保していた
4葛城氏は紀氏だけでなく、息長氏や和珥氏とも交流・連携していた

これらのことから葛城氏衰退後、賀茂氏、秦氏、朝妻造らが葛城から山背の葛野郡や紀伊郡に移住した理由が明らかになる としている。

すなわち、葛城臣氏滅亡後葛城地域の政治的諸関係が激変する中で、彼らは以前からの縁故を頼り、こぞって山背へ移住したものと平林氏は考えている。


私見
平林氏の意見に賛同。次の問題は、山背からさらにどのような移転をしていったかということである。
それを秦氏の行方3で探ってみたい。