「がんばるということ」(その1)も


書いたはずなんですが、見当たりません・・・。


また、見つけたら載せることにします。


(その2)となっていますが、


(その1)を想像しながら


読んでみてください。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




(2007年11月30日の記事です)

応援団 NO.37 がんばるということ(その2)  



<がんばるということ(その2) >
前回での「がんばるということ」では、少し極論過ぎたかもしれません。

誤解のないように書きますが、「がんばらせること」と「無理をさせること」は決していっしょではないということです。
・・・ということは、不登校の子には、その子にあった「がんばること」はあるということです。
障害を持った子にも「がんばること」はあり、元気な子にも「がんばること」はある。・・・

それぞれの子どもにとって、それぞれの「がんばること」あるということです。



これは、私が障害児学級を担任したときに教わったことです。
いっしょに担任した先生は、その子のことをしっかり理解したうえで、学習計画を立てられました。
「この子ならここまでできる!」といって。
そして、「以前にできたこと」や「昨日できたこと」ができないと、厳しく叱りました。
その見極めができていないと、いいかげんに叱ったり甘やかしたりすることになってしまいます。
その「見極め」は厳しく、ある種感覚の鋭さのようなものを感じました。
そうしていっしょにやってきた3年間で、私はいっしょのように叱ったりほめたりすることを学びました。
それ以後、私の、子どもを見る視点は、いつもこの先生から学んだことから始まりました。
問題行動の多い子や障害をもった子、学力の低いとされている子・・・
みんな同じ学校に通う「○○小学校の子」として見るようにして接してきたように思います。
「不登校だから」
「障害をもっているから」
「君はできないから」
と、最初からその理由をレッテルにして、「その子」を見るということ自体が大きなまちがいではないかと思うのです。
極端にいえば、それは「差別」にもつながる考え方ではないかと思うのです。
こわいです。
実はこのことは、わが子に接する時にもあてはまることです。
結局、その「見方」というのは、その人の人権感覚のあらわれということになってくるのでしょうね。
その「見極め」がまわりにいる者にどれだけできるか、それが大切です。
つまり、「その子」のことをどれだけ知っているか、理解しているかが肝心だと思うのです。

本当の意味での「がんばらせる」は、その子にあった課題、その子の将来までを見据えたところまでの課題にたいして本人が元気に楽しく明るくがんばって取り組めるかどうか、ということだと思います。
本当の意味での「がんばる」は、
「ひょっとしたらできないかもしれない。でも、今までの経験を生かしてみればできるかもしれない。よし!やってみよう!」
ということだと思うんです。
だから、その子が持っているものを精一杯出してやりきれるところを「見極め」、「がんばれ!」と励ましてやる、そして、できたときに「いっしょに喜んで」「いっぱいほめてあげる」、そういうお互いの関係づくりを普段からどれだけできているか、ということにたどり着くのだと思います。

とはいうものの、これは難しいです。現実・・・。
自分の子への接し方で見ればわかりやすいです。
私の場合、息子がちょっとなんか言ったりしたりすることが、とても気になります。
癇(かん)にさわるというやつです。
妹が同じことしていても何とも思わないのに、兄がしているとつい「ひとこと」いってしまう。
きっと「長男だから」とか「上の子だから」とか「よく似ているところがあるから」とかいうレッテルなんでしょうね。
自分でもよくわかってるんです。
そんなこと、ありませんか?
その現実を、自分自身をしっかりと受け止め、正すところは正すという謙虚な気持ちはもつようにしたいですね。
できるかどうか・・・ではなく、ことあるごとにいったん、冷静に自分自身を見つめ、自分の言動に振り返っていきたいなと思いますね。
これは、「努力」が必要です!


**

なんだか、えらそうに書いてしまいました。
自分も毎日毎日が反省だらけの日々です。
でも、こうして「応援団」に書いて、「私もいっしょだ!」と思ってもらえると、私も次がんばろうと思えるんです。
それが、「人は、ひとりでは生きていけない。」ということだろうなと・・・。
「うちの子のことで・・・」とか「実は家族で今・・・」とか、以前勤めていたころ、連絡帳や家庭訪問でそんな相談もいっぱい受けました。
じっくり聞いて終わると
「聞いてくれて、ありがとうございます。」
といって、いい顔して帰っていくんです。
だから、通信なんかで「何か気になることあったら遠慮なくおしえてくださいね。」と呼びかけていました。すると、やっぱり「遠慮なく…とあったので…。」と連絡帳にいっぱい書いてきた保護者の方もみえました。

また、おうちでのこととか、お子さんのこととかで何か気になるところや最近かわったこととかありましたら、遠慮なく、ぜひお聞かせくださいね。
おうちの人が、いろんなものをかかえていると、必ずといっていいほど子どもに影響します。
そうなる前にぜひ教えてください。
「聞くこと」くらいしかできないこととは思いますが、・・・。
そんなことも教育相談のうち、と考えています。
「誰かにしゃべったら、ちょっとスッキリした!」なんてことありますよね。
いつでも、どこでも、どんなことでも・・・!


★「教育相談」と、かたい言葉では言いますが、私は、おうちの人と教える側のもの(担任の先生とか、例えば私とか)とが、お互いに気軽に「おしゃべりできる関係」である、ということだと思うんです。
「こんなことなら先生に聞けばいいな。」とか、
「こういうことは、先生に伝えなくちゃ。」とか、
「こんなことで、ちょっと悩んでるんやけど、おうちの人に一度相談してみたほうがいいな。」とか、
「一回、おうちの人たちにも知っておいてもらったほうがいいな。」とか、
そうやって、ふと感じれる、思い合えるという関係でありたいなといつも思うのです。
そうすると、その関係は、どちらの「場所」(学校・塾と家)における子どもの成長に、学習に、絶対、よい素敵な影響を与えてくれると思うのです。
子どもの表情や動き、意欲に大きく影響すると思うのです。
そういう関係をつくりながら、生き生きしてきた子どもたちを、私は、自分の目で心で、何人も見てきました。
そのたびに、「教育相談」、「おしゃべりできる関係」ということの大切さを痛感しました。
「あ、あのときにおしゃべりしたことが、あの笑顔につながっているんだな。」
と、感じれるんです。
「あのときに、私のところへ話があると言って、来てくれて、それからだなぁ、あの子のやる気が出てきたのは……。」
なんていうふうに。
お互いに人間です。「うま」とか「そり」があわない……ということもあるかもしれません。
少なくとも私は、できる限り、おうちの人の意見や考えを聞くことを大切にしてきたつもりですし、これからもそうありたいなと思っています。
うっかりしていることや、忘れてしまうことも多いですが、
「すいませ~ん!ごめんなさい~!」
と言い合える関係でありたいなと思っています。
なんだか自分の都合のよいようにばかり、書いている感じもしないではないですが、これも「私の特性」と思って受け取ってやってください。

こんな私ですが、今後ともよろしくお願いしま~す♪

応援団長より






◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


自分の子どもに接するのが

ホント、一番難しいと思います。

どこまで客観的に

子どもも、自分自身も見ることができるか、ですから・・・。

これは、親子である限り

永遠にむつかしいテーマだと思います。

なぜって、自分の子どもですから・・・。

自分のDNAを受け継いでいるわけですから

どこか「わかって」しまったり、

感情的に怒鳴ってしまったり、するんでしょうね・・・。


少なくとも、ガミガミ言いながらも

気持ちは「大好き」でいたいなと思いますね♪


それと、

できるだけ普段から「おしゃべりすること」・・・。


ふたりきりになったときに

「で、あのことは、どういうことやったん?」

って、自然に声かけれるように努める・・・。


そして、スキンシップ!

おだって笑い合ってくすぐりあったり、

すれ違う、通り過ぎるときに、すっと背中に手をあてたり・・・など。


そこは、反対に

親子ならではの

「気持ちの電波」は通じるもんじゃないかと・・・。


私は、どんなときも

自分の子どもの味方でいてやりたいと思うし、

どんなときも、心配なときこそ、

「俺の子だからだいじょうぶ!」

って、自分に言い聞かせてますね。


これは、とっても不安だし、

「アカン!」って、

自分がつぶれてしまいそうになるけど、

「あいつは、あいつ自身の人生を生きているんだ!」

というふうに考えるようにしたりしていますね・・・。


親子の問題は、

親子の数だけあるので、

ひとくくりにはできませんが、

私は、

・・・私の場合は、そんなふうにしています。


みなさんの

おうちではいかがですか?



また、おたより

お待ちしています・・・。



元気出して

いきましょう!




(o^-')b