4月30日(木曜日晴れ


武田勝頼(諏訪四郎・大膳大夫) 1546-1582

武田晴信の4子。母は諏訪頼重の女。

1562年、諏訪頼重の名跡を継ぎ、伊那郡代となり高遠城を与えられた。(最近では高遠諏訪氏の名跡を継いだといわれてる。)

1565年8月長兄義信の謀反事件が発覚し、ほかの家督を継承するものがなかったところから、俄に嗣子に定められ、11月織田信長の養女(実父は美濃苗木城主遠山勘太郎で信長の妹婿)を娶る。

永禄11年頃から父と行動をともにするようになり、代行として領内に文書を発給している。1570年4月、信玄は将軍義昭の側近、一色藤長に勝頼の任官と編諱を義昭から授けてもらうように頼んでいる。おそらく義昭から官途と編諱を授かって、諏訪勝頼の名乗りを、正式に武田宗家を継ぐに足る名前にしようとしたのであろう。しかし信長は義昭の動きを封じ、その自由の裁量を禁じたため、勝頼は官途を授けられず、受領名も無いままに終わった。もしかしたら武田昭信となってたかもしれなかった。

1571年信玄の後継者として武田館へ入る。1572年遠江二股城を攻め落とし、三方が原の戦いにも参戦した。

1574年2月東美濃に入り明智城を落とし、他の18ヵ所も攻め落とした。さらに7月には遠江高天神城を落とした。この年の6月に信長が上杉謙信に送った書状に『武田四郎は若輩であるが、信玄の掟をよく守って、表裏の駆け引きが大変うまく油断ならない・・・』とある。これが当時の一般的な勝頼評であろう。

1575年4月三河長篠城を囲み、5月には主力部隊は吉田城を囲んだ。同月設楽原の決戦で大敗。この決戦で信玄以来の宿老はほとんど戦死しているが、親族衆はほとんど無傷だった。このことは四男の勝頼に対して同列の朋輩意識しか無く、臣従の意識が無かったことを物語っている。従来この戦いは信長軍の3千丁の鉄砲の連射によって武田軍が壊滅したと説明されてたが、実は多くの戦死者は通説のように柵際で銃撃に倒れたのではなく、退却の最中に戦死している。このことは『信長記』に記されている。この合戦後、織田氏は東美濃を、徳川家康は遠江の諸城を奪回したが、勝頼は父信玄が駿河を占領したころの範図と、1574年に奪取した高天神城などの要衝は確保しぬき、信長・家康の侵攻を1580年まで食い止めた。

1576年4月には父信玄の葬儀を塩山恵林寺で営み、正式に家督を継承し、継目の安堵状を領内に多数発給した。この頃大膳大夫を称したと考えられる。そして家康に対抗するために、1577年1月妻に北条氏政の女を迎えた。しかし、1578年3月に後継者を指名しないまま上杉謙信が急死し、2人の養子が争った。1人は姉の子景勝、もう1人は北条氏政の弟景虎で、北条氏政は景虎を支援し、勝頼も同盟関係から景虎を助けた。北条軍は上野国の上杉勢と戦い、越後国攻撃は勝頼に任されたが、景勝と講和し戦線を離脱した。講和条約は①景勝から上野国西部の割譲。②景勝から黄金の贈答。③は勝頼の妹を景勝の正室として迎える。の3件だった。しかし同時に景勝と景虎の和睦を実現させようと努力をしていたが、その隙をついて家康が小山城、田中城を攻撃し始めたため、和睦交渉を諦め越後から引き揚げた。この結果景勝は景虎を滅亡させ、北条氏との関係が悪化した。こうして勝頼は東西から圧力を受け、次第に勢力を削がれていった。しかし、佐竹氏と結城氏と連携し、上野国方面では優位に立っていた。この時期(1579年末から80年にかけて)勝頼は東部戦線では大規模な攻勢をしかけて要衝上野国沼田城を陥落させ、上野国一国を手中に収める勢いだったが、西部戦線では守勢にたたされていた。それで1579年末以降、上杉景勝と共に信長と接触し、和睦の交渉をしている。すなわち上杉景勝と組んで信長との妥協を模索するというのが、この時期の勝頼の基本方針であったようだ。しかし信長は勝頼打倒を固く決意している。これは信長は信玄が突如友好関係を破ったことを深く恨み、それは勝頼の代になっても変わることはなかったのである。そして1581年3月に遠江高天神城が落城、11月には人質の織田勝長の送還を契機として信長の武田領への大規模な軍事行動を起こす事を決めたという。この高天神城攻略で信長は降伏の申し出を拒絶し、高天神衆が討って出てくるのを待ち、これを殲滅した。これは勝頼が城を見殺しにしたという体裁を取ることに信長はこだわっていた。これにより、武田氏の求心力は完全に失いほとんどの城が無血開城したのではないかと考えられる。しかし同年10月には駿河戸倉城の松田新六郎が、北条氏政から勝頼に乗り換えている。この松田氏の行動からすれば、信長の攻撃を受ける直前まで、勝頼は恃むに足りる存在であったことになる。必ずしも追い詰められた状況にはなかったのであり、滅亡が迫っているちいう認識は自他共に希薄であったと思われる。最後まで抵抗した高遠城は諏訪、伊那衆だった。これは武田勝頼に成りきれなくて、諏訪勝頼だった証拠では無いかと思われる。これについては柴辻俊六氏が『甲斐武田一族』の中で「諏訪家の継承は信玄の一方で便宜的な処置であり、諏訪氏側では認知されなかった・・・諏訪氏の通字である〝頼〟を付けて、その跡目として誇示したものであろうが、その裏付けとなるような儀式は見られず、〝頼〟字も下の方に使用されており、あえて勝頼を諏訪城主ないし諏訪郡代としなかった点にも、その便宜性が読み取れる」とある。

領国維持の困難さを察知して、1581年勝頼は館を躑躅ヶ崎から新府に移すため、真田昌幸に普請を命じてる。なぜこの場所(現韮崎市)を選んだのか。この事は笹本正治氏が平成11年11月に韮崎市で開催された≪戦国の浪漫 新府城ーふるさとの城を語ろう≫の中の『武田勝頼と新府城』で話されている。これが一番的を得ている説だと思われるので、そのまま抜粋する事とする。「甲斐国に限った場合、ここは西に偏りすぎているが、当時の武田領国(甲斐・信濃・駿河・西上野)から見れば、ここの方が躑躅ヶ崎よりはるかに領域の中心に位置する。新府から北西に進めば諏訪郡で、そこから高遠を南下すれば伊那谷を通って遠江や三河に進める。諏訪から北西に進めば信濃府中に至る。また新府をそのまま北上したら信濃佐久郡に簡単に出られ、更に上野へと進む事が出来る。一方富士川沿いに南に向かうと江尻に出られ、駿府につながる。このように新府は領域を全部カバー出来る位置だったのです。又この城の攻撃される可能性として駿河方面を考えていたと思われる。北側からの攻撃は勝頼の本拠、諏訪で踏ん張るつもりだったようです。又ここ北巨摩郡は武田氏と古くから関係が深かっただけに、武田氏の直轄地のような場所と推定できるので、ここを選んだかもしれません。

同年12月に新府城へ移るが、翌年1月、親族衆の木曽義昌が織田信長と通じて離反し、その討伐に向かった留守にやはり親族衆であった穴山信君が家康に内通し、2月12日には織田信忠が木曽救援の兵を起こして、余勢をもって信濃国伊那郡へ入り、3月2日には高遠城が陥落した。同3日、勝頼は新府城に火を掛けて甲斐国都留郡の岩殿城へむかった。しかし都留郡主の小山田信茂の離反によって、織田軍との挟撃にあい、同11日一族と共に山梨郡田野で自害した。『甲陽軍鑑』では岩殿城は小山田氏の要害としているが、この岩殿城の位置は、武蔵との境目にあたり、甲斐防衛の要となる。国境地帯の守備は武田氏が直接支配していた事から、この城は武田氏が築いた直轄の城と見る。勝頼がこの城を目指して逃げたのは直轄の城と考えるのが自然である。


次回は武田勝頼②ですグッド!