B層と全体主義 | 「かつのブログ」

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ごく適当なことを、いい加減に書こうかとw

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かつて、小泉政権時代に使われた言葉に "B層" というのがあります。
小泉純一郎(当時首相)の支持基盤として想定された階層です。すなわち、知的水準は高くないが小泉氏の構造改革には肯定的・・・これをもっと判り易く言葉を変えると、中身はよく判らないけれどもイメージ的に小泉劇場をカッコいいと思っている必ずしも頭の良くない人、もっとはっきり言えば社会階層的にはピラミッドの底辺、ということです。

小泉政権で執行された内容は、実に誰が一番損をしていたのかと言えば、その B層でした。しかし、それが判断できない人達によって支持されている、という上手いカラクリでした。

今、安部政権になって同じ事をやっているように思います。
自民党が下野した時、残ったのは常に一定の支持基盤を持つタカ派ばかりだった事から、急激な右旋回が起こりました。丁度時を同じくして民主党の失政と地震に原発事故が重なったことから、偶然生まれたのが安部政権、というのが私の認識です。

そして安部政権の支持者ですが、いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる類の人達が主たる層でしょう。
経済面でのアベノミクスの危険性(ギャンブル性と言い換えても良い)は多くの識者に言及されていますが、経済のみならず、最近の貧困層に対する締め付け法案など、基本的には B層 (つまり安部政権の支持者) が損をする可能性が高いのです。そしてその層が政権を支持しているという不思議な構図が見て取れます。

私の見るところ、要因は二つ。
一つは景気浮揚への期待感。しかし、主たる理由は対極東外交のスタイルのお陰ではないかと。つまりツッパリ的なイメージ。
これが今回のお題です。民主主義とは何か、その原理と個人主義、全体主義との関係について、思うところなど述べてみようかと。



ヤンキー的な気合主義と安部政権

斎藤環氏は、昨今日本に蔓延する、ヤンキー的な気合主義を憂いています。
ヤンキー的な気合主義が蔓延している

私は、断固として彼の意見を支持します。まさに先般、問題になったスポーツでの暴力事件然り、根本的には、民主主義とは何かすら理解されていないのでしょう。
民主主義を正しく理解すれば、いわゆる B層が現実的には現在とは逆の発想の方が利を得る筈なのですが、思想的に難しいのかも知れません。

根性至上主義みたいな誤った風潮は、「ヤンキー的気合主義」の変形でしかありません。本質的には「ヤマトダマシイがあれば竹槍で戦車に勝てる」と思っていた、過去の日本陸軍と同じです。

スポーツでの暴力事件に関して言うと、
欧州やアメリカでは、暴力を行ったスポーツ指導者は、厳しいようですが社会的に抹殺されます。
翻って、日本ではどうでしょうか? 依然、きわめて甘い対応と言わざるを得ません。その背景にあるのがヤンキー的気合主義です。

なお、傷害罪は親告罪ではありませんから、それが確認されれば被害者からの告訴なしに逮捕できます。
だから本来、プロ野球とかでどっかの馬鹿監督が暴力を振るっているのがテレビに映ったなら、警察はあの監督を逮捕しなければなりません。それを放置しているのは、日本が民主的な法治国家ではないということです。どこかの柔道コーチなんか、逮捕されて当然なのです。

事実、国連人権理事会において、日本での体罰という習慣が「重大な人権蹂躙である」として国際的な批判に晒されている、という事は認識しておくべきでしょう。この勧告は受け入れましたが、代用監獄問題などは日本は三度に渡って拒否しており、次回、場合によっては理事国の資格を失いかねない所まできています。日本は世界で認められた?人権の後進国なのです。

国連拷問禁止委員会の総括所見に関する会長声明

日本と韓国は「世論」を理由として一部の勧告を拒否しています。既に述べたように、これは自ら民主国家ではないと宣言したのにも等しいのです。韓国の世論というのも、日本に似た所がありますからね。本質的には民主主義の根幹たる個人主義が根付いていない(むしろ全体主義的な儒教思想が未だに息づいている)からでしょう。



 個人主義と全体主義

ここまでの内容で、私が先ず言いたいのは、日本は民主主義が教育されていない、ということです。
全体主義の反意語は、民主主義ではありません。他人とは異なることを認め、個人が集団の利益よりも優先する、個人主義こそが全体主義に相対するものです。民主主義の対意語は権威主義です。一般論として権威主義と全体主義は親和性が高いですが、同じではありません。権威を持って個人の尊厳を民草に重視させる人がいないとは限らないので。(通常、絶対的な権力は腐敗しますが)

つまり個人主義があって民主主義があります。
日本の文化にとって個人主義は異質です。だから、そもそも民主主義は異質なのです。
連帯責任とか、全体主義的な考え方が普通に学校や部活動で行われていたりするのは、その証拠です。

そして民主主義の根幹は、個人主義にあります。個の尊厳と自由こそが、民主主義を支える土台であり、それなくしていきなり多数決をとるのは、単なる全体主義であることはご理解いただけると思います。すなわち、世論を人権に優先させるのは、民主主義の放棄そのものなのです。

なお、先の暴力的指導の関連から言えば、教師の暴力は法によって厳しく処罰されるべきですが、その代わり、暴力を行った生徒も法律によって処罰されなければなりません。個人主義に甘えは許されません。法の支配を受け入れなければ、それは民主主義ではなく無政府主義ですからね。



 米国における個人主義と自由

ここで面白い記述をご紹介しましょう。とても面白いので、クリックして全文を読んでみてください。
デミアン君の日本留学顛末記  24.自由とは何か

日本に留学した中学生デミアン君の話です。以下に関連する部分を抜粋しますと:
10月初旬の体育の授業中に、全体で整列の訓練をしたらしい。その際、列の先頭にいたデミアン君の並ぶ列の位置を修正するため、体育の先生が彼の両方の肩を両手でつかみ、2、30センチ程動かしたらしいのである。日本では珍しくも何ともない、体育の授業で、先生が生徒に対して、よくやることである。電話の中では、彼は冷静であった。でも、その時、彼がいかに動揺し、屈辱感を感じたかを淡々と話した。
  中略
でも、「自分は、牛や馬ではないのだから、身体を強制的に押されなくても、右に行けとか、左に行けとか言われればわかる。」と言い放った、彼の言葉も私には強烈であった。他人の善意や悪意とは一切関係なく、自らの意思にかかわらず、自らの肉体を他人によって強制的に動かされて、結果として、身体を動かすことになる。これを自由の侵害と考え、敢えてそうされるのは、言葉の伝わらない動物に対してのものであると理解するアメリカ人。

これはまさにそうであろうかと思います。アメリカで民主主義とそれに根ざす自由は絶対的正義です。
個人の自由は最大限まで優先されなければならない。それが原則であるということです。
民主主義とはその原則の上に立っているのです。でなければ絶対に成立し得ない。

これは、逆のケースを考えれば明らかです。
個人よりも全体を優先すべきだ、という考えの下に、ドイツのファシズムは生まれました。そしてそのファシズムの名の下に、個人の自由は奪われ、指導者原理なる名の下に民衆は絶対服従を強いられました。




 かつてのナチスを支持したのは?

ナチスの時代のドイツでも、やはりナチスを支持したのも、ここでいう「B層」のようです。以下、Wikipedia 権威主義的パーソナリティ
から抜粋です。
1930年代のドイツにおける、ファシズム台頭を受入れた普通の人々や下層中産階級に関して、社会心理学的な分析を行なったフロムや、アメリカの社会学者たちによって、人間の社会的性格(パーソナリティ)として主張された。フロムはこれを権威ある者への絶対的服従と、自己より弱い者に対する攻撃的性格の共生とした。思考の柔軟性に欠けており、強い者や権威に従う、単純な思考が目立ち、自分の意見や関心が社会でも常識だと誤解して捉える傾向が強い。外国人や少数民族を攻撃する傾向もよくある。このような社会的性格を持つ人々がファシズムを受け入れたとした。

日本の経済が右肩上がりだった時代は、「群れの中の一人」に過ぎない凡庸な人間が (特にお役所や巨大企業では) 重宝されました。多くを考えずとも「作れば売れる」という時代だったからです。徹底した集団主義 (すなわち、個人主義の否定) が経済を引っ張った、と言えるかも知れません。
更にそのやり方は、日本人には馴染み深いものであった、とも言えるでしょう。

しかし経済が減速すると、今度は逆に自分で考える人間が要求されます。そしてそれができない、つまり自分では何も考えられない人間が B層を形成したのでしょう。
B層が絶対的指導者を欲し、個人主義を好まない理由のひとつは、そこにあるように思います。

ところで最近、関連する話として、憲法改正論議(特に96条)が姦しいですが、これにも何やら同様の書式が見て取れます。
国民主権において、憲法は本来国民が守るものではありません。国家という権力が無制限に力を得ないようにするための楔です。
96条を変更して、憲法を変えやすくするというのは、その楔を抜きやすくする、ということです。
つまり、絶対的指導者を受け入れたい (或いはなりたい) のでしょう。

最初に述べたように、民主主義の原則は多数決による過半数の意見集約ではなく、個人主義です。96条改正案は、極めて危険であると私は思います。
そして今、教育に必要なのは、個人主義だと思います。残念ながら、私も学校ではついぞ学んだ記憶がありません。