体罰という言葉 | 「かつのブログ」

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ごく適当なことを、いい加減に書こうかとw

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ここのところ、スポーツにおける体罰問題が姦しいです。必ずしも学校ばかりではなく、五輪強化選手でまであったといのだから、驚きを禁じ得ません。

あちこちで問題になっているのは、それだけ日本には世界に恥ずべき文化が根付いてしまった、という一つの事実でしょう。

更に驚くのは、肯定的に捉える人が少なからずいる、という事実です。統計によれば半数に迫る勢いで、これは私には信じ難いことです。
更には、それが愛情の発露だと思っている人すらいるようです。

そもそも、体罰を与える事が可能であるのは、明白な上下関係がある場合に限られます。言葉を変えると、一方的に支配するという関係でなければ、そもそも体罰なんてできません。

その極端な例として、宗教原理主義に基づいて、今でもイスラムの幾つかの諸国では鞭打ちの刑とかがあります。イスラム原理主義では、法の名の元に「人が人を裁く」というのが無いので、罪(宗教上の)に対する処罰として、「全知全能たる神」という超越的支配者の意思でその体に「罰」を下すといった概念になります。

これは罪を犯したのが例え子供であっても例外では無いようで、盗みを働いた10歳くらいの子供を押さえつけて、その腕を自動車に轢かせる映像を見たことがあります。

まさかそんな映像を見て「必要なことだ」と思う文化人は極めて少ないでしょうし、これぞ神の愛情の発露なのだとも誰も思えないでしょう。

更なる疑問は、体罰というのが罪を犯したからというのであれば、スポーツで「罪」とはなんなのでしょう。例えばだらけた試合をした、練習に身が入っていない、挨拶がおざなりだった・・・は罪と言えるのでしょうか?
それは罪ではなく、単に指導者の思うようには行動していない、或いは異なる行動指針をもっている、もしくは連続して集中していない、だけです。

とすると、次に頭に浮かぶ疑問は、なぜそもそも体罰と呼ぶのか、ということです。実はその本質はコーチの思い通りに行動しない選手への暴力の正当化の手段として、「体罰」と呼んでいるように思えてなりません。つまりその実態は、支配者が己の支配を有効なものとすべく、無抵抗な相手を殴りつける、単純に「暴力」以外の何物でも無いということに気づきます。

そもそも愛情の発露であれば、暴力が許されるという発想も幼稚です。暴力というのはそれ自体があくまでも犯罪なのですから。


それは綺麗ごとですって?
愛情の発露で殴ったなどという自己弁護が、綺麗ごとでは無い、とでも?

子供同士だって、お互いの疎通が思うに任せず、暴力に至る事があります。子供は往々にして、自分の意思を相手に上手く説明ないことから、イライラしてつい手が出る、というのは良く見る構図です。しかしこれは、その精神的な意味において、コーチが自分の思い通りに行動しない選手を殴るのと同じなのではないですか?

つまり、これらをまとめると、精神的には極めて子供じみた話なのに、一方的に優位な地位を利用して暴力をふるい、それに対する自己弁護或いは自己正当化の手段として「愛情の発露」という詭弁を弄しているのではないのですか、ということです。自分で自分を騙すことの、何と容易なことでしょうか。

闘将を自認する血の巡りの悪い野球監督の話なんか読んでいると、特にそう思います。何しろ暴力というのは、防衛的な場合を除けば理由の如何を問わず、立派な犯罪なのです。犯罪行為に対する自己正当化のためのエクスキューズなんか、ニュースで広報するマスコミもどうかしている、と思います。それは犯罪への加担の謗りを免れません。

恥ずべき文化が根付いた、という話を最初にしましたが、容認する人が未だに少なからずいるのは、そもそも自分が殴られ、殴ってきたからでしょう。言い換えると、よく考えずに感情に任せた暴力を認めているからです。

子供は大人の言うことを聞きませんが、大人のやることは真似します。
体罰の名の下に暴力をふるわれた子供は、それを正しい事として認識し、次の世代に伝えます。その結果が、この 「日本に根付いてしまった文化」 なのではないでしょうか?

一部の選手は容認しているかも知れません。だからこそ、やってはいけないのです。