能楽師 片山伸吾のblog『冷吟閑酔』

能楽師 片山伸吾のblog『冷吟閑酔』

生粋の京男の片山伸吾が、時には舞台人として、時にはただのおっさんとして、日々の出来事を気ままに綴っていきます。

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久しぶりに人に惚れた。舞台人として、人間として。
一昨日の『能にしたしむ会』に御出演頂いた、山本東次郎先生に惚れた。

もとより先生の素晴らしさは自分なりに判っていたので、自分の催しに是非にとお声がけさせて頂いたのだが、当日楽屋へお越しになられてからのすべての立ち振る舞いに、感銘を受けることになる。

私にとってこの『能にしたしむ会』という催しは、亡き親父さんからバトンを受けた催しだが、父の追善というサブタイトルをつけることができた昨年までとは違い、今回は実質自分の催しとしてのスタートでもあり、今まで以上にプレッシャーを感じていた。その中で必要だった要素が、まさに山本東次郎という存在だった。

舞台では私の『弓流』の『那須』を、御年76歳とは思えない力量で勤めてくださった。今回、息子の初シテという『話題』はあったが、所詮子供の舞台。我々親子の非力さを先生が充分にカバーしてくださった。

「今日はお招き頂いて、本当に嬉しゅうございます。」
「大勢で寄せて頂き、散財させて申し訳ございません。」

私如きの青二才に対しても、丁寧なお言葉遣いと気配りを、上辺だけでなく心のこもったメッセージとしてかけてくださる。この低姿勢ぶりを拝見して別のある人物のことを思い浮かべた。

三世茂山千作先生。先だって他界された四世千作先生のお父上であり、四世とはまた違った芸風で人間国宝になられた名人である。この先生は私が若かった頃にお亡くなりになられたのだが、それでもその立ち振る舞いは充分に印象に残っていた。

能楽界はご存じの通り、昔はシテ方絶対主義で、御三役(ワキ方、囃子方、狂言方)とはいわば主従関係の時代があったのだが、今では同じ立場の一能楽師として成り立っている。ただ三、四十年前までは確実にその名残があり、我々シテ方に対して恐縮するほどの丁寧な接し方をされる方がいらっしゃった。三世千作先生はまさにその一人で、人間国宝になられた後でも必ずシテ方の楽屋に「おつとめさせていただきます。」と深々と頭を下げてご挨拶くださった。

それから時代はさらに進んでいる現在においても、その姿勢を貫かれる方こそが東次郎先生なのである。催しのあった晩に、祇園のバーで再び東次郎先生と御一緒させて頂いた。その時に失礼ながら前述の三世千作先生のエピソードをお話しさせて頂いた。先生は私の話に何度も頷かれ、「その通りなんですよ。おつとめさせて頂いているのです。」と。

シテ方と三役の関係は持ちつ持たれつで、どちらの存在もなくてはならないものなのである。その上での先生のお考えは、能の大半の興行主であるシテ方がまず存在して、催してもらわなければ自分達の仕事はない。狂言師が狂言師としてだけでなく、能楽師狂言方としての意識をいかに持ち続けるかが大事である。それ以上に純粋に舞台に立たせてもらえることへの感謝の気持ちを持っていれば、自ずとそうなるということのようだ。

「つとめる」という言葉を我々はよく使うが、どの漢字をはめるのが適切なのかその都度悩む。「勤める」「務める」「勉める」「力める」。東次郎先生のお話を伺って、そのすべてが必要なのだと心底感じた。口に出せないまでも心の中で「おつとめさせていただきます」という言葉が素直に出せるようにならねばと思う。

今回ご依頼させて頂いた時点では、まだ人間国宝でいらっしゃらなかったのだが、その後認定を受けられ、催しの予算が上がった(笑)。でもそんなことは関係なく、余りあるほどの勉強をさせて頂いた。

名実ともに真の人間国宝の四世山本東次郎、この人に惚れた。


新幹線で偶然知り合いの方と隣同士になる。厳密に言うと、数回しかお目にかかっていない方であり、それも久しぶりだったので、最初御本人かどうか分からなかった。

新大阪で乗った時点で、その方は先に通路側にお座りになっていて、僕は荷物ごと跨いで窓側に座った。この横顔、この出立ち。八割方の確信あったのだが、向こうは全く気づいてられる感じでもなかったので、二の足を踏んでしまった。

そこから残り二割の本人確認をしようと思えど、まじまじと顔を覗き込む訳にもいかず、頭の中だけで計算を繰り返す。

米原辺りで答えは出たものの、お休みになってられたのと、こっちも眠くて、長話になって寝るタイミングを逸するのも嫌だったので、その時は声をかけず、何時しか微睡んだ。

小田原辺りで起きた時、思い切って声をかけ、見事再会の儀式を果たした。結果、お目にかかることができたことは大収穫で、僅かの間ではあったが、中身のあるお話ができた。

しかし、普段より遠い遠い東京だった。



iPhoneからの投稿
山鉾巡行の今日、それぞれの山鉾についてちょっとしたお話。

今年の話題の中心は大船鉾の再興。本格的な巡行参加は来年以降となるが、今年より御神面を入れた唐櫃(からひつ)による特別な形での巡行復帰となる。大船鉾はもとより『※後の祭り』のしんがりだったため、近年ずっと最後方だった南観音山に代わりトリを務めることとなる。——※御存知の方が多いと思うが、元々巡行は二度行われていて、『先の祭り』のほうが巡行する山鉾の数も多く華やかなものが多かったことから、手遅れだとの意味を表すことわざとなった。

それが故に、今年の『後の祭り』の巡行順には変化が見られる。明治5年より先頭を務めていた北観音山とその後の橋弁慶山の順番が入れ替わる。これは『祇園社記第十五』に書かれた明応9年(1500)年6月6日の鬮取に依ると、『先の祭り』の長刀鉾と同様に、『後の祭り』では橋弁慶山が「先規(先の規定)ヨリ一番也」と記され、応仁の乱前より鬮撮らずで先頭だったことが明らかなためである。また最後方を譲った南観音山は、今年から29番目という位置でクジ取らずとなる。そういう意味からもいつもとは少し違った光景が見られる巡行となる。

山鉾の大きさとはどれくらいだろうか。長刀鉾などの大型の鉾は10トン前後、その他の山鉾は0.5~1トンの重量で、山には大型の鉾と同様の規模の曳山(ひきやま)と、小型で神輿の様に担いで巡行する舁山(かきやま)とがある。現在では舁山にも車輪が付いている。また傘鉾は往時は人が傘を手に持ち巡行していたが現在は台車に乗せられている。

さて近年は32基の巡行が固定化されているが、前述の『祇園社記第十五』には、応仁の乱以前の巡行順が記載され、実に58基もの山鉾が参加していたらしい。そこには現在に残る長刀鉾、函谷鉾などの名前の他に、聞き慣れない名前もたくさんある。小判もち山、はねつるべ山、花見の中将山、おかひき山、だるま鉾、ふすま僧山、しゃうめう山、泉の小二郎山、れうもんの瀧山などなど。
また現在と呼び名の違う山(柳の六しゃく=現・鯉山、普陀落山=現・南観音山、やうゆう山=現・北観音山)や、すて物鉾などのように由来さえ想像できないようなものもある。

現在も我々のジャンルの『能・狂言』の曲から由来するものは多くあるが、以前は更に天鼓山、自然居士山、那須の与一山、朝比奈もん山、小原木の山、西行山、韋駄天山、氷室山、こかうのたい松山(小督から取ったとされる)などがあったというから、素材として最も重宝されていたジャンルといっても過言ではないだろう。

いずれにせよ、祇園祭が京都の本当の意味での町衆のお祭りとして伝えられてきていることは明らかで、その歴史を紐解くだけで、京都の文化の変遷までもが酌み取れる。京都人が特別な思いで祇園祭と接するのも、当然のことだろう。

個人的には大船鉾の完全復活も楽しみであるが、あと二つ休み山となっている、布袋山と鷹山の復活も望ましい。特に曳山の規模だったとされる鷹山を、是非見てみたい。
今日、実に残念なことがあった。大阪での催しのあと、翌日の稽古のため岡山へ。六分目の腹を満たすために、ホテル近くの炉端焼きの店へ繰り出した。

評判通りそこそこ美味しいものが続き、お店の店員さんや御主人の接客も良く、私的にはかなりの満足度に達していた。

ところがである。最後に注文した物でその満足度が谷底に落ちていく。頼んだのは『鮎の塩焼き』。この季節の鮎は解禁前であるから、本物はなかなか出てこないのは分かっている。ただ本当の評価ができるものと思い、養殖物が出てくることも覚悟の上でオーダーした。

厨房に目をやると、網の上には、他の焼き魚かなと思うような大きな魚が載っていた。嫌な予感。ひょっとしてあれが鮎?明らかに冷凍物のような堅さの身なりだ。やがてその魚は、私の目の前に運ばれてくる。身はぐちゃぐちゃに柔らかく、香りすら失せている。

何でなんだろう?

この言葉しか出てこない。あれだけ丁寧な仕事をしているのに、何でこんなところで手を抜くのだろう?自分以外のお客さんの満足そうな顔を見ても、まず、ほとんど外れのない店だと思う。だからこそ尚更残念でならないのである。これなら例え平均点が低くても、ハズレのない店を選ぶ。折角こだわって頑張ってられるのなら、爪の先まで神経の通ったお店を創ってほしいと思う。

満席にも関わらず、外まで挨拶に来てくれた店主の姿が、逆に痛々しく感じた。
今日は娘・紫乃の『十三参り』に出かけた。我が娘がこんな歳になるなんて、本当に月日の流れは速い。京都では七五三以上にポピュラーな十三参りだが、ご存じない方にちょっと解説。

『十三参り』とは、旧暦の3月13日の間、数え年13歳に成った少年少女が元服を迎え、大人と成ったことに感謝して、これから先の万物の福徳と英知を授かるために、虚空蔵菩薩に参詣する行事。京都では嵐山にある『法輪寺』がメッカである。

娘も朝早くから美容院で髪を結い、着付けてもらった。着物は私の姉が『十三参り』の時に着たもの。いつもは色気もないヤツが、お淑やかなお嬢さんに。女ってすごいなと正直思う。一旦家に戻ってきた娘は、仏壇のおじいちゃんにその姿を披露。「生意気な…。」なんて親父の言葉が聞こえてきそうだ。

お参りに出向くまでに、近所の写真館に立ち寄る。緊張のあまりか、表情の緩まない娘に、写真館のおじさんが鈴を取り出してトレモロ、トレモロ。幼児同様の扱いに思わず笑ってしまう。

そしてようやくお参りへ。途中、御室の桜見物渋滞にひっかかるが、思ったより早く法輪寺に到着。急な階段を上がる。境内は同年代の子がそれぞれに着飾り、華やかだ。さていよいよご祈祷へ。

……なんだ、このお経は。元来お経とは分かりにくいものであるが、今日のお経は何を唱えてられるのか全く分からない。どう聞いても擬音語のオンパレードでしかないのだ。そしていよいよ対象の子供達の名前が呼ばれるのだが、その読み上げ方にまた「んっ……?」

「━━━━━に住まいする、かたやま~、し~の~~ !!」

「おまえはリングアナウンサーかっ!」 と突っ込みたくなるような読み様。まるでご祈祷ショー。最後には両親への感謝など、中身はありがたいことを仰ってるのだが、これがまた流暢すぎるマニュアル通りな読み方。ありがたさを全くもって感じられない。

実名を挙げるのは私の主義ではないが、『十三参り』といえば『法輪寺』と呼ばれるが故、隠しようがない。ハイシーズンだと数をこなさなければならないので、ある程度は致し方がないと思うが、子供にとってはやはり一生に一回の大切な儀式。本当に智恵を授かることができると感じられるお経であり、教えであって欲しい。娘ですら全く有り難みを感じないと言っていた。

ロケーションも併せ、参詣するのには相応しい場所であるが故、名実とも唯一無二の存在であって欲しいと切に願う。

家に帰った娘は、着物を解き、ラフな姿に。そこには文句をたれる、いつもの娘がいた。まだまだお子ちゃまですな。





昨日は御懇意にさせていただいている中村芝雀氏とごはんたべ。只今南座に御出演中で、久しぶりに京都にいらっしゃっているのです。御存知の通り、お父様でいらっしゃった中村雀右衛門氏が先日お亡くなりになり、まだお疲れが残ってらっしゃる中での京都公演なので、激励の意も含めてお誘いしました。

芝雀氏は私より一回りほど上でいらっしゃるのですが、気さくで対等にお話ししてくださるので、いつも楽しい時間を過ごさせていただいております。

お連れしたのは、私の行きつけの『ごちそう紫陽』というお店。私も御無沙汰だったので、この日を楽しみにしておりました。ここは素敵なおかみさんが美味しいおばんざいを出してくださるお店。料理に加え、居心地の良さが相俟って、ついつい長居してしまいます。

突き出しを頂き、『お刺身の盛り合わせ』『ほたるいかの天ぷら』『自家製コンビーフ バケット添え』を注文。いつもながら秀逸なお料理の数々。特に『ほたるいかの天ぷら』は、絶品でした。そしてそして『コンビーフ』。実はこのコンビーフ、元々私からおかみさんにレシピを教えてあげたものなのです。

市販のコンビーフが苦手な私ですが、代官山にある「hearty」というお店のコンビーフサンドを知ったときは衝撃でした。それから数年後、たまたま読んでいた雑誌に、あのコンビーフのレシピが載っているではありませんか。思わず自分でチャレンジ。出来上がったそれは、まさしくあのコンビーフ。家で作れる感動も大きかったですが、それ以上に手間がかかる面倒さも実感しました。

その話をお店に伺ったときにおかみさんに話したら、是非そのレシピを教えて欲しいとおっしゃるので、コピーをお渡ししました。当然その後、おかみさんはチャレンジされて、メニューの中に加えられました。ただいくら本職とはいえ、やはり手間がかかりすぎるので、なかなかお目にかかれません。今までおかみさんのコンビーフに巡り会ったことはなかったのですが、この日の予約を5日程前に入れておいたので、おかみさんがわざわざ御用意してくださっていたのです。一口食べてはビール、そして一口、またビール。また自分で作りたくなってきました。

シメは定番、『お豆腐のぶっかけごはん』。ごはんの上にお醤油のかかったおぼろ豆腐。そしてその上にちりめん山椒と山盛りのあさつき。芝雀さんも大満足して頂いたようで、セッティングは大成功でした。

その後、祇園へ移動してもう一軒。話はいつまでも尽きませんが、次の機会を6月の博多でと約束して、楽しい一夜は更けていくのでした。
写楽が誰かということが断定されたと人から聞いた。先日NHKで特集をやっていたようだ。結論は以前から言われている能役者・斉藤十郎兵衛。ギリシャで見つかった写楽の扇子の肉筆画の筆跡など、消去法でいくと、他の候補者の説が消えて、彼だけが残るらしい。

私は元より民俗学が好きで、特にこの写楽の謎はその中でも上位に位置する話題である。他にも
 ・「かごめかごめ」の歌の意味から発展する、天海僧正の謎
 ・『小倉百人一首』の謎
など、考え出すと気になって仕方がない。だから写楽が断定されるということは、とても興味深い話なのだが、この手の話は結論付けてはいけない、と私は思う。

NHKの番組を見てないので、偉そうには言えないが、断定するには少し強引だと思うし、その昔、NHK特集でやっていた版画家・池田満寿夫氏の写楽=中村此蔵(大部屋の歌舞伎役者)説はどうなるのだろう。

舞台やドラマの世界では、安宅の関の弁慶と富樫のやりとりに様々な演出があったり、俊寛を置いて都へ戻った康頼、成経が回し者であったりするなど、脚本家や演出家のさじ加減で、様々な表現を観ることができる。そんなあほなと思うこともあるが、それもまた楽し。史実や背景が骨太であれば、大胆なアレンジもみんなに受け入れられる。

ところが真相究明となると、事情は違う。通常我々は、ある程度の説得力のある証拠を二、三突きつけられると、ああなるほどとその説に共鳴する。そしてまた違う説得力のある説を聞くと、またああなるほどと思う。

民俗学とはその繰り返しだと思う。100%の断定ができるのなら、断定すればいい。私も納得する。ただ民俗学はロマンの固まりである。有名な人物や物事であればあるほど、その対象は神格化されているといっても過言ではない。いろんな説に踊らされながらも、結局誰なんだろうなあと思っていること自体が楽しいのである。

写楽は写楽、それ以外の何者でもない。



明日の名古屋での社中の会に備え、夕方より名古屋入り。明日は丸一日頑張らなければならないので、自分への元気づけに美味しいものを食べに行きました。

設定はもちろん、気兼ねすることのない、大好きな一人飯。今日は名駅近くの『魚 しんのすけ』というお店です。ここは以前に三度ほどふられた人気店。魚好きの私としては是非とも行ってみたかったお店です。

一昨年半ばから父の稽古場を引き継いだことで、名古屋へ来る機会が急増しました。近頃ではかなり名古屋通になっている次第です。

そこで自称名古屋通から一言。「名古屋には美味しいものがない」という方がたくさんいらっしゃいますが、それは嘘です。確かにこの土地の食文化は独自性が強く、いわゆる一般に言う『名古屋めし』には好き嫌いがあると思います。ただ私が言う『名古屋めし』はあらゆるお店を指すわけで、名古屋にも探せば美味しいお店はいくらでもあります。

私の結論、「名古屋にはとても美味しい店か、不味い店かどっちか。あいだがない!」

さて『しんのすけ』ですが、噂に違わず素晴らしいお店です。お品書きに目を通すと、店名通り九割が魚料理。それ以外は野菜などで、見事なまでに肉気がありません。

まずは当然の如くお刺身から。盛り合わせに新さんまとあかむつを入れてもらいました。ワサビが半本ほど、おろし皿に載って出てまいります。いやはや、もう…!
こうなるとやはり日本酒が欲しくなります。栃木の『惣誉』という純米酒をパートナーに、十二分に堪能しました。

続いては穴子の天ぷら。ほんとに程よい塩加減が、穴子の甘みを引き立てます。さらに酒のつまみにと残しておいた先程のワサビを、ほんの少し載せてみたのですが、これがまた…!

シメにはシラス飯を。これも辛すぎない絶妙の塩味が、米の甘みを強調します。「お好みで少しお醤油を。」との御主人の御意見通りやってみると、さらにパワーアップ。そしてまたまたワサビを和えてみると、口の中は彦磨呂ワールド!

このお店、名古屋最強と言っても過言ではありません。こんなお店があることも、このお店にこれだけの人が訪れることも含め、名古屋を、名古屋人の味覚を侮ってはいけないことを再認識しました。

俄然明日の元気が出てきました。美味しいお店、美味しい日本に感謝、感謝です。
今日は東京の稽古場でもある葛飾区の『青砥神社』の大祭がありました。姉が嫁いだところで、氏子さんが多いこともあって、10年くらい前から東京の御社中さん達と奉納しています。私が『四海波』を謡った後、皆さんと『養老』の後(のち)を謡いました。

さて夜は定期的に伺っている目白の『花想容』さんでの講座。宿泊先のホテルからタクシーに乗って伺いました。

ところが、運転手さんが曲がるべき角を通り過ぎてしまい、どんどん西へ。曲がれそうな道がないとはいえ、あまり離れすぎても困るので、細い道を曲がって貰うことにしました。

これが大間違い。目白の住宅街の道はかなり狭いことは承知していたのですが、想像以上。バックもできないような道に入り込んでしまいました。一本道も細かなカーブの連続で、自分がドライバーなら間違いなく半ベソかきそうなところです。あるコーナーに差し掛かったとき、「このままなら絶対擦るで」と思い、「運転手さん、擦る、擦る。」と言ったのですが、運転手さんはそのまま進み、「ガリガリガリ!」。「あ、やっちゃった!」。

明らかに向こうが悪いのですが、細い道を入らせた責任感がどいてくれず、罪の意識が押し寄せてきました。運転手さんはいい人で、私を責めることは一切しないのですが、いい人であるが故に、こっちは余計に申し訳なくなってくるのです。

結局その後も細い道と一方通行に悩まされ、目的地から離れたところで降車することにしました。1,460円の料金を5,060円で払い、おつりをまず千円札で3枚受け取りました。残り小銭600円。思わず「結構です。」と言ってしまいました。

もう一度客観的に考えてみます。ミスの数2対1。しかも初めのミスがなければ、こんなことにはならなかったはず。ただ「そこ左です」というのが若干遅かったかな?とか考え出すと、もう僕の中では限りなくドロー。会社から怒られるんだろうなとか思うと、600円を遠慮するのは必然となってしまうのです。むしろこんなんでいいのかななんて思ったりして。

私の行動、おかしいですか?
只今発売中の『家庭画報特選きものSalon '11-'12秋冬号』に、母と家内が出させて頂いております。『節目・儀式のきもの揃え』という記事中に、『七五三の装い』について御協力頂きたいとのことで、編集部から御相談があったようです。二人の子供に七五三の折に着せた着物に加え、家族がどう粧うかということもテーマのようです。

雑誌の撮影って本当に大変ですね。特に季節感のある雑誌は、およそ半年近いタイムラグがあるので、秋冬号の場合は真夏の撮影となるわけです。家内も炎天下の中、涼しそうな顔をしなければならないのに苦慮したようです。

本人さん達は普段より美しく撮って頂けて素直に喜んでいますが、我々家族にとっても一つの儀式として、単なるスナップに留まらず、記録が残せますし、おこがましいながらもこういう形があるということを皆さんに見て頂ける機会だとも思いますし、良いお話を頂戴したと思ってます。

そして数日前、本が送られてきてびっくり!いとこの九郎右衛門夫人、友麻さんも出てらっしゃるじゃないですか。違うテーマのところですが、まさか同じ号にとは思ってもみなかったので(編集部からもまったく聞かされていませんでした)、かなりびっくりしました。

ちょっと宣伝になってしまいましたが、宜しければ是非ご一読ください。

http://www.kateigaho.com/kimono/