香川の高松市六条町や下田井町周辺で高松家と縁が強いのは貢八幡神社とそれを移転

した下田井八幡神社である。

 

 貢八幡神社の由緒には「藤原家成十二世の孫、新庄太左衛門長光は初め豊臣の家来で

あった。もとより八幡宮を信仰し、ある夜夢の枕頭に松の木の高さ十丈余のものを生じ、

八幡神が松上に現れた。そのために改めて、高松氏とした。故あって三野郡大野原に帰り、後山田郡田井郷に移る。その子太郎兵衛は長重内匠と名を改めた。慶長四年正月十五日(1599)夜、夢で六条貢が原の八幡宮を場所を選んで移すようにとお告げがあったので民に謀って祠を下田井に移してこれを広大にしたと『讃州府誌』などに記載されている。

それ故、六条は下田井八幡宮の氏子であったのがいつの頃か分かれて六条に鎮座の鹿島神社を氏神としたのである。里人は古宮様と言い伝えている。祭神は応神天皇。」と。

 

 また下田井八幡神社の由緒には「慶長年間高松内匠長重の創祀といふ。長重の父を長光と云ひ、その先は藤中納言家成より出で新庄を以て氏とす。長光かねてより八幡大神を崇信せしが、一夜枕頭に松樹高さ十余丈なるもの生じ、樹上に八幡大神現れ給ひしを夢み、氏を高松と改む。子長重豊臣秀吉に従ひて朝鮮の陣に加はり戦功あり山田郡田井郷に居る。
或る夜、六条村貢原に八幡宮をあるを以て適地に遷すべしと夢告あり。往て之を求めしに果たして神像ありしかば、慶長四年を以て祠を下田井に建てて之を祀ると云ふ。下田井八幡宮と稱へらる。三代物語によれば、七月七日祭禮の節 田の中に棚を架して酒食を薦むるに、雌雄の鴉その頸白く、大さ鳩の如きものありて當社より飛来して之を食ふ。若し食はざるときは更に棚を架し酒食を改めて再三に及ぶ。俗に之を御當具烏云ひ神使なりと云へりとあり。
一説に當社は天正年間貢八幡宮兵火にかかりしを以て下田井に遷座せしなりとも云ふ。

明治四十年十月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。」と。

 

 どちらの由緒にも松の木が夢枕に立ち、高さ十丈(約30.3m)の巨大な松の木の上に八幡神が現れ御告げにより、高松と改名するというなかなか奇妙なものである。

高松憲重(高松頼邑、嘉重の子)は新居太郎兵衛長重、憲重の子の久重は新居長兵衛

長次のことと推定されるが判然とはしない。高松家家譜においては年代に相違があるが、

頼邑を長光、憲重を長重、久重を長次としている。

 以前ご教示頂いたのだが、藤原家成の讃岐の系譜に新庄姓は合致しないので、新居姓が正しいものである。活字に直す際に新居を新庄に書き間違えたのだと思われる。そして文禄・慶長の役に実際に参加しているのか不確かなこともあるが、功績があって讃岐国主生駒親正の家臣となり、秀吉の四国征伐における高松(喜岡)城攻めの恩赦が出てからしばらくして

新居から元の高松に改名しているのだ。郷内で確固たる地位を築いてから本当の高松姓を公にしている。この新居への変名は落武者狩りを逃れるためだったと考えている。

            

・天正13年(1586)  ― ―  高松城主の高松嘉重(久重の祖父)は羽柴秀吉の四国征伐に際し

                 内応を勧められるもこれを拒絶し戦死する。戦後嘉重の次男で

                 ある憲重は肥後国へと逃亡。

 

・天正15年(1587) 久重0歳 憲重が肥後宇土城主の小西行長に召し出されて1万石を

                 領有する。

 

・天正20年(1592)  5歳   憲重とその弟又五郎が小西行長の先手として朝鮮に渡海し

                 数々の高名を挙げる。天正年間に高松家菩提寺の長専寺

                 前身が六条城跡に建立される。又五郎は出家して順誓と名乗る。

 

・文禄2年(1593)     6歳     10月3日、豊臣秀吉が憲重の朝鮮平壌における活躍を褒賞し、

                 感状を授ける。上記功績により秀吉から讃岐攻めの時の罪を

                 許され、讃岐国主生駒親正の家臣となる。

 

・文禄3年(1594)    7歳     朝鮮から帰国し、憲重は生駒親正から讃岐領内1万石を拝領。

 

・慶長4年(1599)     12歳  正月十五日、高松(新居)長重が貢八幡神社を下井田へ遷す。 

 

・慶長5年(1600)    13歳  高松憲重が鹿島神社を再建。

 

・慶長8年(1603)     16歳  久重が元服し讃岐国主生駒一正の元に初出仕。生駒家臣の十河

                  十兵衛と諍いを起こし讃岐国を立ち退く。父憲重が病死し、

                 家督は養子高助が継ぐ。

 

・慶長10年(1607)   18歳  生駒一正に招聘され、久重は讃岐国内で1000石を賜る。

                 この時から内匠を名乗る。生駒家臣の次久多市兵衛と佐藤掃部が

                 諍いを起こし、久重は一人市兵衛側に味方しその身柄を自宅で

                 保護する。久重は、讃岐国高松城内で乱暴を働いた野瀬喜介を

                 捕縛し、褒賞を授かる。 

 

 また『讃州府誌』には『翁媼夜話』の高松氏についての興味深い記述がある。

「一曰貢八幡宮郷社社僧自性院藤原家成十二世ノ孫新庄太左衛門長光初メ豊公ノ微臣タリ

素ヨリ八幡宮ヲ崇信ス一夕夢二枕頭二松樹高サ十丈餘ノモノヲ生ス八幡神松上二現ル遂二改メテ高松氏トナス故アリ辞シテ三野郡大野原二帰リ後山田郡田井郷二移ル其子太郎兵衛長重内匠ト改ム慶長四年正月十五日夜夢ラク六條貢ヵ原二八幡宮アリ宜シク靈區ヲ擇ンデ

移スヘシト因テ里民二謀リ祠ヲ下田井二移シ之ヲ高大二ス其札札二高松孫右衛門兼盛高松内匠長次等ノ名ヲ載ス其子亦内匠長次ト称ス初名長兵衛大坂ノ役木村長門守二属シテ戦功アリ長次後松平越中侯二仕ヘテ禄五百石ヲ給ハリ世々内匠ト称ス内匠次子ヲ次郎兵衛ト

曰フ六子生ミ其産ヲ分與ス各子孫アリ伊澤長曽根岡野松下本木長専寺等皆高松氏ニシテ

後各々氏ヲ變スル者也喜岡城ノ高松ト同姓異人也」と。

 前半部は貢八幡神社と下田井八幡宮の由緒と同様の内容であるが、高松内匠(久重)の名が長次で初名が長兵衛であったとしている。子孫は代々内匠を継承して名乗り、その子供が次郎兵衛であったこと。六人の子供がいて土地を分けて相続し、子孫は伊澤・長曽根・岡野・

松下・本木・長専寺等の家を興したが、元々は高松姓の者であった。藤原家成十二世ノ孫の

新居姓として解説しているので、喜岡城の高松と同姓異人と述べている。これは先にも記したように、秀吉の四国征伐の赦免まで落人狩りを逃れるため新居と変名しているためである。讃岐高松家の系譜は神櫛王と高松頼重(南北朝期)を祖とした以下であるからだ。

 

高松家系図

景行天皇―神櫛王・・・・・・高松元頼(高松氏祖、奈良時代)・・・・・・  

 

―高松(舟木)頼重(南北朝時代)―頼春―頼冬―頼包―頼持―某(六郎)―某(左近)

 

―頼邑(天正年間、左馬助、嘉重、長光)―憲重(長重、内匠、小西行長、生駒親正に仕える)

 

―久重(長次、内匠、大坂の陣活躍、伊勢桑名松平家番頭)

*生駒甚助正信が高松憲重が亡くなった後の讃岐高松家の養子になるともある

 (久重が殺人で讃岐出奔したため)。

 

・讃岐に憲重の弟、高松又五郎(与左衛門、順誓、天正年中に長専寺創建)―某―某

 ―専祐(元文頃)・・・高松淳文(昭和)

・阿波に高松与三右衛門(室町中期、阿波三好に仕える)―与三右衛門(浪人)

 ―与左衛門(賀島政慶に仕える)・・・・・順蔵(幕末、坂本龍馬の義兄)

 

貢八幡神社

  

 

 

下田井八幡神社

 

 

 

『古今讃岐名勝図絵』の記事。

高松内匠長重の弟が高松又五郎であり秀吉公に仕え、朝鮮の役において武功があったこと。

大坂城が落ちて故郷讃岐に帰ろうとするとき、高松内匠長次が船を敵軍に請いたが、敵軍はその武勇を恐れて船を与え、飯を与えたが長次は器を持っていなかったので陣羽織に包んだことなどが『難波戦記』に見えるとある。

 

『翁媼夜話』の記事。