「デヴィ・スカルノ」の知られざる“謎と過去” | かたさん

「デヴィ・スカルノ」の知られざる“謎と過去”

以下、
デヴィ・スカルノ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8E
より抜粋。

本名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)、
旧名(日本名)は根本 七保子(ねもと なおこ)。

貧しい家計を楽にするため東京都立三田高等学校定時制部を中退後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」のホステスとなる。

1959年に、インドネシアへの日本政府の開発援助に伴い「東日貿易の秘書」として、スカルノ大統領のもとに送り込まれた。総合商社の丸紅からスカルノへの「夜のプレゼント」というような意味があったといわれている。この一件に当時「昭和のフィクサー」と呼ばれた児玉誉士夫が関わっていたとされ、児玉は巨額の謝礼を得たという。



ポスト「サッチー」で脚光を浴びるデヴィ夫人の知られざる“謎と過去”


この国のテレビに、「懲りる」という言葉は存在しないのだろうか。
ただのブロ野球監督夫人を、あわや国会議員寸前まで持ちあげたあげく、一転して集団イジメのごとく袋叩きに走る。そして次なるお出ましはどうやら元大統領夫人らしいのである。

言うまでもない、デヴィ夫人のことだ。
さすが「世界のデヴィ・スカルノ」と本人自ら語るだけのことはある。木っ端タレントを罵倒させれば天下一品で、あの厚化粧のロを開けば、サッチーはもとより、桜庭あつこ、マリアン、カイヤなど一撃でなぎ倒す。
そのため「芸能界のご意見番」という肩書でワイドショーでも常連化。この10月も日本テレビとテレビ朝日のワイドショー特番に出演、桜庭に向かって「あんたは遊ぱれただけよ」とテレビの前で泣かせてみせるわ、人気番組『愛する二人別れる二人』(フジテレビ)にレギュラー出演し、ヤラセ役者相手に説教を垂れ、本気か演技か物まで投げつけられるわと”罵倒タレント”として大活躍なのだ。
「とにかくデヴィ夫人が登場するかしないかで視聴率が変わる」と、あるワイドショー関係者が、その人気ぶりを語る。

そもそもデヴィ夫人がワイドショーに出演するようになったのは、96年、あの松田聖子のヌード写真集騒動のときからだ。
「コーディネーター役を引き受けたデヴィ夫人が、写真集を出版せずトンズラこいた聖子に向かって、『あんな三流タレント』とか『愛人と遊んでいた』とか、ケチョンケチョンにこき下ろしたでしょ。それに目をつけた日テレのブロデューサーが、去年の末、芸能ニュース特番に出演させたところ、これが喋る喋るで、予想以上の高視聴率になったんです」(前出・ワイドショー関係者)
さらに今年に入ると、折よくサッチー騒動が勃発。こちらも「豚もおだてりや木にのぼる」とばかりに「下品で非常識な人はキライです」などと、ガンガン喋りまくって、一気にブレイクしていったのである。
最近では、デヴィ夫人を知らない世代が増えたこともあって、デヴィ特集ものも人気。 10月3日に日本テレビが90分特番で『デヴィ夫人素敵無敵貴婦人の素顔』を緊急特集。ワイドショーでも「大人気、デヴィ夫人の秘密」的な特葉が組まれ始めた。10月10日にはデヴィ節の集大成ともいうべき、エッセイ『愛をつなぐ』(冬青社)を出版。木っ端タレントいびりに飽き足らず、今度は日本の歴史や教育間題、呆ては政治、経済にまで言及し、すっかり国際的著名人、文化人を気取っているのだ。

ところが、である。
「いやあ、笑いましたよ。この本やデヴィの特番を見て、なんだこりや、と。サッチーなみに面の皮が違う、とね」
そう語るのは、ある週刊誌の古参の芸能記者だ。デヴィ夫人がマスコミで脚光を浴びるたびに、実は、ある”疑惑”が常に噺かれているのだという。
その疑惑とは、ズバリ、経歴詐称である。
「あの人はウソだらけ」
そういってサッチーをバッシングした張本人が、嘘を並べ立てているというのだ。

▼華麗なる経歴をたどる
では、現在のデヴィ夫人の経歴は一体、どうなっているのだろうか。
出版されたばかりの自著と、自ら出演した特番『素敵無敵貴婦人の素顔』から、デヴィ夫人の経歴をみてみよう。

1940年、東京都港区生まれ、日本名は根本七保子。大工の父親と病気がちな母との間に長女として生まれる。兄弟は弟一人(八曾男)。父親が中学時代に亡くなり、家計を助けるために、生命保険会社に勤務。三田高校の定時制に通いながら、「休日は喫茶店でアルバイト。弟を大学に行かせるために赤坂でホステスになる」(テレビ『素敵無敵~』より)。当時から日舞、英語塾にも通い、∞年、訪日中のインドネシアのスカルノ大統領と、ティーバーティで運命の出会い。3回目のデートでブロポーズされ、インドネシアに波り、40歳年上の大統領との恋が話題になった。
そして「同年11月、ジャカルタで結婚」(「愛をつなぐ』より)。回教のインドネシアでは、4人まで夫人を持てることから第3夫人としてデヴィ夫人と呼ばれる。
62年、母親と弟が相次いで亡くなり「天涯孤独の身になった」(デヴィ夫人)ことで、インドネシアに国籍を移し、「宝石の妖精」どいう意味の『ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ』に改名する。だが、幸せの日々は長く統かず、舶年、共産党の暴動未遂に端を発した事件でスカルノは失脚。大統領どの間に出来たカリナを懐妊したデヴィ夫人は、大統領の勧めもあって、67年、日本で出産した。
その後の経歴は「67年、スカルノ大統領が終身大統領を解かれ、その3年後、ジャカル夕で逝去。その後、幼いカリナを連れ、パリに亡命。社交界の華として賛美され、”東洋の真珠”と称される」(『愛をつなぐ』より)。
80年代に入ると、実業家としても成功、インドネシア、パリ、NY、日本に豪邸を持ち、現在は世界を飛ぴ回り、環境間題のボランティアや講演、テレビ出演など多岐にわたって活躍中、ということらしい。

まさに華麗なる”デヴィストーリー”。
実際、50年代後半から60年代にかけで世間の関心の中心は、美智子妃とデヴィ夫人だったと言っても過言ではないほどだった。
が、前出の芸能記者は言うのである。
「何もデヴィ夫人が話題になったのは、貧乏娘が大続領夫人になるシンデレラストーリーだけではない。叩けばホコリの出るスキャンダルの女王としてだったのです」
ところが、このデヴィストーリー、美談こそあれ、一切、醜聞がない。
「だから人気をかさに都合の悪いことを全て隠し、全部、美談に仕立てているんだよ」(前出・芸能記者)
デヴィ夫人の厚化粧のように、見享に”素顔”を隠しているというのだ。

確かにこうした経歴をチェックすると、おかしな事実に突き当たるのだ。
まず結婚年次、である。
著書では59年だったのに、特番では62年。本人が監修していろはずの経歴に、どうしてこういう”ミス”が起きるのか?
前出の芸能記者がこう解説する。
「スカルノは大続領ですからね。結婚するということはファーストレディ(国母)を意味するので、おいそれと外国人と結婚できるわけはない。デヴィがスカルノと結婚したのは、デヴィがインドネシア国籍になった62年というのが定説で、59年というのは、事実婚を指すのでしょう。もっと言えば、インドネシア政府が正式に第3夫人と1して承認したのは、65年ですよ」
実際、本誌が調べたところ、64年にデヴィがスカルノとともに来日したときの肩書は「大統領随員ミス・デヴィ」公の場では、あくまで”愛人”扱いだったのある。
サッチーの経歴詐称問題では、事実婚と入籍時期をどうのこうのと文句を言っていたが、そういうデヴィ自身、全く同じことをしていたわけだ。これだけでも首をひねりたくなるが、まだまだ経歴詐称疑惑が続くのである。
デヴィは、スカルノが亡くなった後、パリに亡命したことになっていろが、インドネシア事情に詳しい人間がこの経歴を見て、「嘘とは言わないが事実とは連う」と説明する。
「65年に共産党のクーデター未送で失脚したスカルノは、この時点でレームダックになったため、カリナを懐妊したデヴィ夫人は、身の危険を感じて67年日本で出産。しかも『日本のマスコミには二度と出ない』と、逃げるようにそのままバリに行っているんですよ。デヴィがインドネシアに戻ってきたのは、70年のスカルノが亡くなる直前、一度だけです」
一説には「20億円相当」のスカルノの”隠し財産”があったといわれ、事実、カリナ嬢の誕生バーティで三ツ星レストランのマキシムを借り切ったり、当時で200万円以上するオートクチュールのドレスを買い漁るなど、「本来、国の税金で」(前出・インドネシア事情通)優雅な亡命生活をエンジョイしていたという。青年実業家が破産すると同時に離婚し、莫大な慰謝料をかすめ取ったマリアンと何が違うのか、と言いたくなろう。

さらに前出の芸能記者がつけ加える。
「それにデヴィ夫人は、63年に俳優の本郷功次郎、そして69年には津川雅彦と”不倫”をしていたんですよ。しかも二人の関係を自著「デヴィ・スカルノ自伝』で赤裸々に告自しているんですからね」
自分の行動を照らし合わせれば、桜庭に「羽賀との関係を喋るのは卑怯」と泣かせたり、「愛する二人別れる二人』で、「結婚がどうの、愛がどうの」と文句を言えた義理ではないのである。

▼閣に葬られた梶山季之の『生贄』
まあ、以上の疑惑は、都合の悪いことを”厚化粧”で隠したに過ぎない。
だが、デヴィ自身、言い逃れできない経歴詐称疑惑が存在するのである。
前述したように、デヴィ夫人の家族は、両親に弟一人。デヴィ(七保子)は長女という家族構成であり、この三人が亡くなったことで「日本に身内はいない」と語っていた。
ところが、彼女の戸籍を調査すると、驚くべき事実が浮かんでくるのである。

彼女の戸籍には『父母との続柄変更につき、昭和33年2月14日、筆頭者及ぴ父母との統柄長女と訂正』と記載されている。
一体、どういうことか。
「実は、義理の兄と姉の二人がいるからですよ。それを隠すために戸籍を変更したようですね」(ある芸能評論家)
根本家の家系図を見ると、デヴィの母親は妻をなくした父に嫁いだ後妻で、異母兄姉がいるのだ。もちろん、テレビやインタビューの経歴で、この事実が載ることはない。ある意味では経歴詐称と言っていいだろう。
だが、間題はそう単純ではなかった。
デヴィが戸籍を抜いた昭和33年(58年)は、スカルノと出会う1年も前だ。当時、デヴィは18歳。まるで、スカルノと結婚するために事前に「身辺整理」をしたとしか思えないのだ。

本誌はその疑間に答えてくれる、ある一冊の本を入手した。タイトルは『生贄』。著者は作家の故梶山季之。この著書もまた、デヴィ夫人によって消された”過去”であった。
「この『生贄』は、67年、徳間書店から出版された小説。『アサヒ芸能』に連載中から、デヴィ夫人をモデルにしていると、話題になってました。実際、連載中から圧力がかかり、突然、終了したかと思えば、今度は単行本発売直後にデヴィが名誉毀損で訴え、絶版になった”幻の本”です。作者の梶山は、週刊誌でデヴィ関連のスクープも飛ばすほど精力的に取材をしていただけに、信憑性は高いと評判だった」(某出版社編集者)
そこまでデヴィ夫人が、この小説を世に出したくなかったのは、中身を見れば分かる。主人公の名前は笹倉佐保子。金ど名誉に執着した女性が、自らの肉体を最大限に利用し、アルネシア連邦の第3夫人、ビデ夫人(笑)に収まるまでの経緯を描いたものだ。

間題は、主人公と大統領の関係がアルネシアの賠償間題を有利に解決するため、政商や総会屋、政治家たちが暗躍し、”生贄”として献上されたものだと暴露している点であろう。しかも主人公の佐保子は、先行したライバル政商の”生贄”女性を出し抜くため、整形手術を受けた人工の美女として、大統領を籠絡したというストーリーなのだ。
「小説のラストは佐保子に敗れた女性が自殺するシーンで終わっていますが、このモデルとなった女性は金勢さき子という人で本当にジャカルタで自殺しています」(前出・芸能評論家)
それだけでなく、この小説で登場する政商や総会屋を、デヴィ自身、『デヴィ・スカルノ自伝』の中で認めているのだ。
「実際、単なるクラプホステスが、国賓のティーパーティに誘われ、しかも定時制高校を中退した彼女が英会話が出来たという事自体、おかしい。小説にあるように元々、スカルノのために抜擢されていたと考えるほうが自然でしょう」(前出・芸能評論家)
前出のインドネシアの事情通も言う。
「1500億円以上の戦後賠償金の窓口としてデヴィ夫人がおり、大統領の方もジャバンマネーを引き入れるという意味でデヴィを夫人にするメリットがあった。だからこそ当時のインドネシアの国民は、デヴィを『ゲイシャガール』と呼んで正式夫人として認めることに反対したのです」

これが彼女のいう”愛”の実態であり、その厚化粧の下に隠された”素顔”は、何とも生々しいものではないか。

▼スキャンダラスな半生
折角なので、デヴィ夫人の素顔にもう少し迫ってみよう。スカルノの死後、デヴィ夫人は完全にバリ社交界のヒロインになったと自慢しているが、実際はどうだったのか。
「バリの社交界には二種類あって、彼女が入り浸っていたのはドミモンドという裏社交界の方。本当の社交界には元大統領夫人でも貴族じやないと入れないんです。まあ、裏といってもお忍びで貴族も遊びにくる、いわば、貴族たちの遊び場みたいなパーティなんです」(パリ事情に詳しいジャーナリスト)

71年、デヴィは、そこで知り合ったスペイン人官豪のバエサと婚約。盛大に婚約披露バーティを開催したという。
「このパエサは当時、有名な投資会社の経営者だったんですが、どうも大金持ちを捕まえたというより、逆に当時、20億円相当といわれたデヴィ資産目当てに近づかれたようです。実際、当時、デヴィ夫人はパエサの投資会社に金をつぎ込み、大損をしたといわれていましたから」(前出・パリ通のジャーナリスト)

体よく騙されたデヴィ夫人は、金策がてら日本に戻ってくる。そして六本木にディスコを開店。「東京にパリの社交場を作る」と大見得を切ったものの、たった2力月で閑古鳥が鳴く有り様。その際、常泊していた帝国ホテルのホテル代100万円が払えなかったと当時の週刊誌ネタになっている。
以後、金がなくなるとスポンサー探しに「来日」するのがパターン化していたともいわれるが、さすが元売れっ子ホステス元大統領夫人。キャバレー王の小浪義明、丸源ビルの社長などに次々と気に入られ、援助を受け続けたようだ。
いわば天性の”ジジ転がし”こそが、デヴィ夫人のいう「一流の生き方」を支えてきたというわけか。

が、さすがのデヴィ夫人も寄る年波で資金集めが苦しくなったのか、90年代になると「日本国籍に戻し、選挙に打って出る」と、事あるごとに語るようになった。自ら、政治カを手にし駆便しようどしたのだろう。
ところが、この計画も御破算になる。
92年、ニューヨークの社交場バーティで口論相手の女性にシャンパングラスを投げつけ、ケガをさせたことで禁固60日(37日に短縮)。国籍取得が難しくなったというから笑うに笑えない。

それだけではない。翌93年には、重大な詐欺騒動まで起こしているのだ。
これはホテルオークラで国連環境計画支援チャリティを開催。収益金の10万ドルを寄付したと出席者に手紙を出しながら、出席者が国連に確認したところ、寄付していなかったことが発覚、大騒動になった。
「大体、デヴィ夫人の動物保護の見識など、オスロットという豹の貴重種の毛皮を自慢そうに着ていることで分かる。このチャリティも主賓に国運環境計画北米局長が来るというのがウリだったのに、実際は呼んでもいなかった。騒ぎにならなかったら着服する気だったと言われても仕方ない」(雑誌編集者)

確かにやることなすこと「世界」を股に掛けてスケールはデカい。デヴィ夫人からみればマリアン、林葉直子、桜庭あつこ、サッチーなど、あまりにも子供だましで、ついついイチャモンを付けたのだろう。
それにしても、である。ちょっと調べるだけでポロボロと出てくる醜聞にもかかわらず、なぜ、デヴィ夫人の”素顔”は、触れられることがないのだろうか?
「都合の悪いことを載せると、デヴィはすぐに裁判に訴えますからね。この『生贄』のときも、デヴィ夫人の記事を載せた『週刊サンケイ』『アサヒ芸能』『ヤングレディ』『女性自身』『週刊大衆」『週刊実話』と軒並み、訴えましたからね。記事を書いた小山いと子、藤原弘達らも訴えられ、それでビビッて、誰も書けなくなったんですし(前出・芸能記者)
過去、デヴィ夫人に告訴されたことがあるのは、『週刊新潮』、共同通信、朝日新聞などなど。とにかく容赦なく裁判に訴え、都合の悪い情報を封じ込めてきたのだ。泣く子とデヴィ夫人には誰も勝てない--ということか
当然、昨今の時の人となったデヴィ夫人に逆らおうという気骨のあるマスコミは皆無。
「梨元勝、前田忠明なんか、若いころ散々、デヴィを取材して、全部、知っているはず。でも視聴率欲しさと告訴怖さに黙っているから、デヴィ夫人は増長する一方です」(ワイドショー・スタッフ)

すでに局の送り迎えはリムジン、控室も一番広い部屋じゃないと出演を承諾しないといい、雑誌のインタピューも「扱いが皇族なみ」というのが条件と噂されている。サッチ-なき現在、講演依頼も殺到。早連、事務所を設立し、金稼ぎに精を出しているという。
サッチーに勝るとも劣らない、プラウン管の”怪物”が誕生しつつあるのだ。
だが、デヴィ夫人を作ったのは、紛れもなく日本の政財界とマスコミである。デヴィ夫人が通り過ぎると後に、しばらく伽羅の強烈な残り香がするという。あたかも戦後ニッポンの裏面史を隠すように、である。〈敬称略〉






デヴィ夫人
国際的派? でしゃばり女


元 亭主





ホステス

東京都立三田高等学校定時制部を中退後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」のホステスとなる。1959年に、インドネシアへの政府開発援助に伴い、東日貿易秘書としてスカルノ大統領に送り込まれた。総合商社日商岩井からスカルノへの夜のプレゼント的な意味があったといわれている。この一件には当時昭和のフィクサーである児玉誉士夫が関わっていたとされ、児玉は巨額の謝礼を得たという。

大統領第3夫人

妾扱いであったうえに、前任者は自殺をしていたが、頭の良さと第1夫人への気配りや立ち回り、また当時の日本外交や資金援助の取り付けをスカルノ大統領は非常に重要視していたこともあり、1962年、スカルノと結婚。4人の夫人の内の第3夫人になる。語学力を活かし、当時既に高齢だった第1夫人に代わり、スカルノ外遊の折には大統領の傍でトップレディとして振舞う姿がみられた。

しかし日本の家族である弟は彼女の立場を理解できず、悩んでそれが一因で自殺したと言われており、それを伝え聞いた彼女は、何時までも心を離れない悲しいトラウマになっていると告白している。

スカルノとの結婚以降、インドネシアへの経済援助(ODA)や、日本への資源輸出などに積極的に関わり、インドネシアと日本の両国の掛け橋的存在となる。しかし、1965年9月30日に起きた軍事クーデター、いわゆる9月30日事件でスカルノは失脚し、かわりにスハルトが大統領となった。デヴィ夫人はインドネシアの日本大使館に亡命を希望したが、国際的立場からして断られてしまった。その後、スカルノ大統領の第二夫人を除いて、皆離婚し逃げ切った。

デヴィ夫人も離婚をしフランスへと亡命した。しかし、そこでも上流階級に属し(スイス銀行に財産を隠していたと噂された所以である)フランス社交界では数々のロマンスを経験、数回の婚約発表が取りざたされたが、結局再婚はなかった。

デヴィ夫人にとって「元大統領夫人という肩書き」は捨てがたいものだったと言われた。なお、長女はスカルノ大統領の子供ですでに外国で結婚している。

スカルノと来日した時には、大映スターであった本郷功次郎とのロマンスが発覚し、それをスカルノが止めたというエピソードがあり、スカルノ亡きあと来日していた当時の津川雅彦とのロマンスは有名である。週刊誌のインタビューに堂々と恋人同士であることを告白している。「津川さんの素敵なところは臭い台詞でも平気で女性を褒めることが出来る日本人ばなれしている点」というような意味の発言をしてもいた。しかしその恋は永続きせず、やがてフランスに帰って行った彼女を津川は追っていったが、簡単に袖にされて即帰ってきた。

スカルノ死去後

クーデターを予期し以前よりインドネシアからスイスへ巨額の資金を確保していたとささやかれる。

インドネシアよりの正式な財産の受け取りはない。つまり、スカルノ死去時にスカルノ家ならびにインドネシア政府から財産の相続の放棄や子供のスカルノ家内の地位などを完全放棄させられているため、第三夫人としての資産は没収されていると思われる。


デヴィ・スカルノの朝鮮総連での挨拶

平成19年7月4日水曜日雨 ○
 あのデヴィ・スカルノ元大統領夫人が犯罪組織である朝鮮総連の大会で、以下のように吠えたそうです。
以下引用
▼「小泉前首相は金正日総書記と国交正常化することを決めた。小泉首相の後を引き継いだ安倍首相は、本来なら国交正常化を実現するために努力しなければならないのに、正反対のことをやっている。まったく理解できない」。26日に行われた女性同盟定期大会で来ひんとしてあいさつしたデヴィ・スカルノ元大統領夫人の言葉だ

▼デヴィ夫人は、「今後もあらぬ迫害を受けるかもしれないが、決してめげずに、団結してがんばってほしい」と参加者らにエールも送った。会場からは、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
引用終わり
[朝鮮新報 2007.6.27]
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/08/0708j0627-00001.htm

  「あらぬ迫害」とは何のことでしょう。
 犯罪国家北朝鮮の手先である朝鮮総連の犯罪については過去に何度も書いてきました。
 今日の産経新聞で北朝鮮の工作員を竹下派の支配の時は逮捕できなかったわが国の異常さが書かれている。辛光洙という北朝鮮工作員は南朝鮮で逮捕された時に、金正日から直接指示を受け、拉致をおこなっていた事を南朝鮮の取り調べでしゃべっている。その時に逮捕状を検札が出さなかっただけでなく、一九九七年五月の衆議院外務委員会での安部晋三議員の次のような質問までこの事が問題にされる事がなかった。
「韓国の裁判の記録に厳然たる事実があるのに、私は日本の警察はどうしているんだ、強い憤りと疑問を感じる」「辛への取り調べを行いたいという意思を伝えてもらいたい」
 一四年後の一九九九年大晦日に辛が赤い大統領の金大中の判断により釈放されたときに、森政権は動かなかった。その時の外務大臣はあの売国奴河野洋平である。売国河野は「私の責任を取る」と大見得をきって国費一一〇〇億円もの巨費で北朝鮮に米を五〇万トン送った。
この売国奴は何も責任を取っていないどころか衆議院議長まで勤めて我が国を危うくしている。
 ちなみに、九〇年代は金丸信、渡辺美智雄、加藤紘一、野中宏務、中山正暉、加藤紘一などという北朝鮮族議員が大活躍していた時代でした。
 九〇年五月の朝鮮総連への捜査に対しては金丸信が警察庁幹部に圧力をかけたとされる。その後、金丸は友人の田辺誠社会党副委員長と北朝鮮に行き、いわれなき謝罪と戦後の償いをしている。
 辛らの釈放に対して、金大中に対しての嘆願書には土井たか子、菅直人、江田五月、千葉景子、山下八州夫、渕上貞男ら一二八人が署名している。

 北朝鮮に国民が拉致され、国家の主権が侵害されたのに動こうとしなかった異常な時代。やっと普通の国らしくなってきたのです。これをまたあの異常な時代に戻してはいけないと思います。
 犯罪組織である朝鮮総連を追い詰めていくのは法治国家としては当然のことです。
 そんな犯罪組織の味方するバカ女デヴィ・スカルノ。



デヴィ夫人の統一教会の集会での発言


 週刊新潮の記事では七月三十日、東京のホテルニュ-オータニで開かれた<世界平和と南北統一を願う国際指導者大会>という統一教会の集会の後にひらかれたディナーパーティーで、あのデヴィ夫人が
「ミサイルが七発飛んできたからといって、何を慌てているのでしょう」
「偽札や覚醒剤を作っているからといって北朝鮮を非難するのはやめたほうがいい」
「朝鮮戦争の責任は日本にもあるんです」
と宣わったそうです。
その後、同誌の取材には
「ええいいましたよ」と認め、
「ミサイルはあくまでも実験でしょう。しかも日本領海に飛ばしたわけじゃあない。それなのに大騒ぎするなんてみっともないですよ」
「覚醒剤や偽札も立派な犯罪だけど、何が彼らをそこまで追い詰めたかという見方も必要です。私はアメリカだと思うのです」ときっぱりと言い切り、朝鮮戦争の責任については
「日本にも責任の一端がありますよ。だって日本がずっと支配していて、敗戦後に何も後始末せずに逃げ出したじゃありませんか。だから朝鮮半島は分断されてしまったんです」
週刊新潮平成十八年八月十七・二十四日夏期特大号p五十九~六十

 アホ過ぎます。流石は自分の銅像を建てるのに一生懸命になった金日成と趣味が合ったスカルノの夫人だけあります。
 ミサイル発射は「お互いの安全を脅かす行動をしない」「双方は核およびミサイル問題を含む安全保障上の諸問題と関連し、関係国間の対話を促進し問題解決をはかる必要性を確認した。朝鮮民主主義人民共和国側は、この宣言の精神に沿ってミサイル発射の保留を2003年以後もさらに延長する意向を表明した。」と明記したあのアホらしい平城宣言にさへも違反しています。(小泉首相はどうしてこのようなアホらしい平城宣言を破棄しないのでしょう)
 
 また、国家が覚醒剤や偽札を作っている事を擁護などできる要素は皆無です。追い詰めるとはどういうことでしょう。国家経営に失敗したのはバカ独裁者である金日成、金正日の責任です。アメリカは関係ありません。もちろん我が国も関係ありません。まあ、我が国が関係があるとしたら、戦後の土地の略奪、言論に対する弾圧などの朝鮮人の横暴を許し、パチンコという賭博を取り締まらずに、肥え太った在日朝鮮人の送金によりその腐れ国家を延命させたことでしょうか。そして、工作員ともいえる土井たか子、美濃部亮吉などの売国奴政治家、そしてそんな北朝鮮を理想国家と夢想した朝日新聞、岩波書店などの腐れマスコミが責められるべきことです。
 「朝鮮戦争も日本の責任」「敗戦後に何も後始末せずに逃げ出したじゃありませんか」という発言にはも驚かされます。多少なりとも歴史を知っているものであったなら、こんなアホなことは言わないでしょう。ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し朝鮮半島、満州になだれ込んできて、あの国らしく略奪の限りを尽くしました。
 まあ、そんなソ連の姿を見抜けずに最後まで当てにして仲介を頼んでいた状況判断のできない無能な政治家の責任といえばそうなるでしょうが、「敗戦後に何も後始末せずに逃げ出したじゃありませんか」と言っているこのデヴィ夫人という御仁はそういう考えで言っていないようです。ただ我が国が統べてを放りだして逃げ出しただけと思っているようです。
 現実はアメリカ軍が朝鮮半島に進駐してきた時に、朝鮮人ではなく日本人に施政をとらせました。北朝鮮を蹂躙していたソ連も日本人がいなくなると何も出来なくなるので、相当数が止め置かれました。日本人はその生来の律儀過ぎるほどの律儀さにより引き継ぎを行ったのです。
 デヴィ夫人の腐った脳みそではそういった事が判らないようです。こんなバカ女が国際指導者・・・・ブラックジョーク


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国交正常化が打開の道


 金日成主席が1965年4月にインドネシアを訪問し、インドネシア総合大学の名誉博士号を授与された後にスカルノ・インドネシア大統領らと写した写真2点が、朝鮮から送られてきた。写真を受け取るため、7月31日に朝鮮会館(東京都千代田区)を訪れた故大統領の未亡人、デヴィ・スカルノ夫人に、ミサイル問題をはじめとする最近の朝鮮半島情勢に対する見解を聞いた。夫人は一昨年2月を皮切りに、これまで3回訪朝している。


ミサイル発射

 朝鮮のミサイル発射に関して、日本がなぜあんなに騒ぐのか、とても不思議だった。

 世界47カ国がミサイルを所有し実験を行っているのに、なぜ朝鮮だけがミサイル実験をしてはならないのか。しかも今回は、ロシア近海に落ちた一発を除いて全て朝鮮の近海に落ちている。もちろん、日本に事前通告しなかった問題はあるが、朝鮮海域を通る漁船や民間の船舶には通報したと聞いている。

 米国はもちろんイギリスやフランス、ドイツなどもテストをしている。ミサイルだけでなく、米国はインドネシア近海のマーシャル群島で過去何十年にもわたって核実験を行っている。

 にもかかわらず、米国は世界のポリスのようにふる舞い、実験をして良い国と悪い国を振り分けている。

 私がここ数年言い続けているのは、なぜ朝鮮だけが(核やミサイルを)持ってはいけないかということ。世界の全ての国が持っておらず、その中で朝鮮だけが持ったのなら、それはいけない。しかし、200近い世界の国の4分の1が持っていて、朝鮮だけが持ってはいけない理由はどこにあるのか。

 朝鮮は破壊的な国で、「ならず者」国家だからと言うなら、「ならず者」国家と言われるまで追い込んでしまったことに目を向けるべきだ。朝鮮側からしてみれば、朝鮮戦争停戦後50年以上も経済制裁を受けてきた。生きる道を閉ざされてきたも同然だ。その点について考えるべきで、ただ非難すべきではないと思う。

 今の状況を見ると、要するにホワイトハウスの意思に背く国家元首は国ともども経済制裁を科して、無理やり米国に振り向かせようとする政策だ。それに日本が加担している。日本はアジアのリーダー格として、もっとできることがあるはずだ。


コメ支援

 私は、日本の政治家がもっと徳のある政治を行うべきだと思う。主義主張が違っても、朝鮮をもっと尊敬すべきだ。

 たとえば、隣国が食糧不足にあえぎ、それによって死者まで出ているときに、条件をつけて、その条件をのまなければ援助しないというやり方は納得できない。私の正義感が許せない。だから昨年、私が名誉会長を努める「金日成花金正日花普及後援会」を通じて朝鮮に120トンの精米を届けた。支援米の袋には「withLOVEデヴィ・スカルノ」と書いた。中国の瀋陽から貨物列車で平壌まで運んだ。列車が駅に到着する際、朝鮮赤十字社の方とともに駅で出迎え、一緒に荷物を降ろした。


国交正常化

 私はこれまで3回訪朝し、そのつど、いろいろな方にお会いしたが、その方たちに、小泉さんは約束を破ったではないかと言われ続けてきた。小泉首相は訪朝し、国交正常化すると約束して帰ってきた。その約束がいまだに実現されていないというわけだ。

 今でも少なからぬ日本人観光客が朝鮮を訪れているが、国交が正常化されれば、より多くの日本の人が訪れるだろう。逆に朝鮮の人も日本に来ることができる。韓国の観光客数も日本をはるかにしのぐが、南北が統一されれば、すべての離散家族の再会が可能だ。

 日本人観光客が増えれば増えるほど、ホテルや観光関係者も潤う。経済的にも非常に良い方向に進むだろう。朝鮮に投資しようとする企業が出てくるかもしれない。

 横田めぐみさんのご両親も、孫娘に会いに平壌に行った方が良い。何度でも会いにいけば、通訳を介してでもそのうち事実を打ち明けてくれるのではないか。めぐみさんの友人に会えるかもしれない。夫にも会って詳しく話を聞けば真実もわかってくると思う。


現状打開

 今、日朝関係は最悪の状態にあるが、それを打開するには、やはり国交正常化しかない。

 それとともに、在日の人たちはもっと発言すべきだ。その発言がマスコミで取り上げられ日本人の目にとまれば、日本人も違う見方があることに気がつくだろう。日本の人たちも十分わかると思う。今はマスコミを通して一方的な情報しか与えられていない。

 日本でも反ブッシュ、反イラク戦争、反自衛隊海外派兵を主張する人たちがいる。朝鮮の問題にしても、違った見方をする人たちが声を大にして、それがマスコミに取り上げられれば、また違った反応も出てくるはずだ。

 少なくとも米国では、ある意見に対する反対意見も必ず載せる。日本では一方的な意見だけが目立つ。ハイエナのごとく弱い者いじめをしている感じがして、とても嫌な気持ちになる。

 とにかく、人の行き来が活発になり、互いに話し合ってわかり合えるようになることが大切だ。(まとめ=文聖姫記者)

ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ 1959年、インドネシア共和国のスカルノ大統領と訪日中に出会い、同年11月にジャカルタで結婚。70年、スカルノ大統領が逝去。その後、パリに亡命。社交界の華として賛美され、“東洋の真珠”と称される。80年よりパリからインドネシアに戻り、実業家として、石油、ガスの分野でプラントを設立するなど、各事業を展開。91年、ニューヨークへ移住。環境問題や先住民の生活保護、コンサート・ピアニストとオペラ歌手への支援など、さまざまな活動に携わってきた。現在日本で数々のテレビ番組に出演。全国各地で国際的視野の形成、人生観の確立などをテーマに講演会などを行うなど、多岐にわたり活躍。主な著書に「パリからの手紙」(光文社)、「デヴィ・スカルノ自伝」(文芸春秋社)など。

[朝鮮新報 2006.8.8]





海外まで出稼ぎに行き 男を探すくらいだかでしゃばりは得意だね。

ところで今 おくつ? 亭主 食い殺したの?もう80歳かね?
靴は3000足だってね。アンタ ムカデかい?