荒木雅博 | ☆大 辞 典☆

荒木雅博

荒木 雅博(あらき まさひろ、1977年9月13日 - )は、中日ドラゴンズに所属する内野手。背番号は2。愛称は「トラ」[1]。→


人物
チームの得点源として欠かせない存在で、俊足と高い守備力でも知られる二塁手。特に守備については、二遊間へのヒット性のゴロを飛びついて取り、金村義明に「人間の動きじゃない」と絶賛されたことがある。同僚で遊撃手の井端弘和との二遊間は高く評価されている。また、打線でも荒木が1番、井端が2番で出場する機会が多く、コンビは通称「アライバ」として定着している。井端とのグラブトスプレーについての詳細は、井端の項を参照のこと。井端とはプライベートでも仲が良く、インタビューで井端が荒木について「(性格やプレーを含めて)全部好き」と語ったこともある。また、一時期階は違うが同じマンションに住んでいたこともあった。


来歴
熊本工高出身。野球部の同期に松本輝(ダイエー - 東北楽天)、田中雅興(元オリックス)、競輪選手の合志正臣が、一年先輩に秀太(阪神)がいる。高校時代は俊足強肩の好遊撃手、及び主将として名を馳せた。しかし甲子園では1本もヒットを打てなかった他、手の甲を骨折してコーチとして甲子園に出場するなどの不運もあった。

1995年のドラフトで、この年のドラフトの目玉福留孝介(近鉄が指名権獲得。後に中日に入団し、2007年まで在籍)・原俊介(巨人が指名権獲得し入団)と、続けてくじに敗れた中日が「ポスト立浪」[2]を期待して1位指名を行い、入団した。

入団2年目の1997年に一軍デビュー、12盗塁を記録する。しかし入団後5年間は代走で起用され、1998年から3年間スタメン出場は1試合もなかった。

2001年、8月から1番・二塁手に定着する。それまでは立浪が不動のセカンドのレギュラーであり、荒木は代走・遊撃・外野で起用されていたため、当時の監督・星野仙一に「セカンドできるか?」と聞かれたというエピソードがある。この年、300打席前後ではあるが、打率.338の好成績を残している。荒木に規定打席到達の可能性はなかったが、タイトル争いは松井秀喜の首位打者獲得以外あまり話題が無かったため、影の首位打者と呼ぶテレビ局もあった。この年から井端弘和と1、2番を組み始めている。

2002年山田久志に監督が交代し、スイッチヒッターに挑戦。出塁率の高い1番井端のあと、俊足を生かした2番を担う構想だったが、前年ほどの打撃は披露できず、打率を大きく落とした。守備でも重度の送球難、いわゆるイップスに陥り、たびたび悪送球で失策を重ねた。当時打撃が売りの森野将彦も二塁で台頭しはじめており、荒木は中堅と二塁でほぼ半数ずつ起用された。中堅でも守備センスは発揮しており、この年のオフには1番井端、2番荒木に加え、首位打者を獲得した3番福留孝介のトリオに「ブルースリー」の愛称がついた。

2003年には中堅に守備能力の高いアレックスが加入。打率はさらに落として.237となり、開幕からもっぱら8番二塁で起用され、森野とレギュラーを争った。

2004年、落合博満が監督に就任し、荒木を二塁に固定する方針を打ち出す。送球フォームをサイドスローに変更するなどの試行錯誤や反復練習の結果、送球難を克服した。またこの年から再び右打席に専念。開幕後しばらくは出塁率の高い1番井端弘和の後の2番起用が続いたが、2番に必要な打撃の柔軟さを欠くと判断され、5月に井端と打順を交代。初めて全試合に出場し、リードオフマンとして自身最多となる176安打、39盗塁、打率.292の好成績を残した。また、オリックス時代のイチロー(現・シアトル・マリナーズ)が持っていた、複数回1試合4安打のシーズン日本記録を、9回に更新。打撃でも優勝の大きな原動力となった。荒木と井端の「打って1・2番、守って二遊間」のコンビは高く評価され、この年自身初のタイトルとなるベストナイン[3]・ゴールデングラブ賞の受賞。リーグを代表する二塁手となった。

2005年はトップバッターとして定着。リーグ最多打数を記録し、打率.291、42盗塁と、前年とほぼ同じ好成績を残した。三振を減らして四球を増やし出塁率を上げるなどの成長を見せた。また、2年連続のベストナインとゴールデングラブ賞を獲得。守備に難のある一塁手のタイロン・ウッズをカバーして余りある守備力を披露した。この年のオールスターゲームでは熊本工業高の先輩の前田智徳(広島)に色々とアドバイスを貰ったという。

2006年の序盤は打撃不振の上、シーズン途中で肩とわき腹を故障し、二軍に降格となった[4]。復帰当初の荒木は二塁を守れる状態ではなかったが、福留が欠場していたため、2番中堅で出場[5]。福留の復帰に合わせて1番二塁に戻り、最終的には3年連続30盗塁を達成。打率も目標としていた3割に初めて到達(.300)。史上初となる井端との3年連続同一球団二遊間でのベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。ただこのシーズンは怪我で112試合しか出場できなかった上に、右肩痛により本来の送球ができず、守備率も.979と低迷。失策も前年の7から12と増加したため、受賞を疑問視する声もあった[6]。その為荒木本人も、翌年の更なる守備の安定を目標に掲げた。

2007年は、シーズン中盤まで主に2番で起用されたが、怪我や不調で二度の二軍落ちを経験。しかしシーズン後半には打撃も昇り調子になり、シーズン終盤やクライマックスシリーズでは1番に戻った。シーズン打率は低迷したが、後半の活躍とライバルの赤星憲広のケガもあり、自身初の盗塁王のタイトルを獲得[7]。日本シリーズでも攻守で活躍し、5試合で終了したシリーズではタイ記録[8]となる4盗塁を記録。優秀選手に選ばれた。また獲得が危ぶまれていたゴールデングラブ賞も井端とともに4年連続で受賞した。しかし打率は.263と不調で、ベストナインは田中浩康(東京ヤクルト)に譲ることとなった。オフには選手会長を退任した井上一樹の指名を受け、2008年からの選手会長就任が決まった。契約更改では500万円ダウンという評価を受け「走塁の評価が低いのは納得できない。来年FAを取得したら言わせてもらう」とFA行使を示唆する発言を行った。一方で「チームが優勝できなかったのは自分の責任」と言う旨の発言もしている。

2008年、シーズン初頭の4月2日にFA権を取得した。また、6月21日のロッテ戦において通算1,000本安打を達成した。9月9日にFA権を行使しないと発表した。→


エピソード
ドラフトでは外れの外れの一位であったため、監督室に挨拶に行った荒木とスカウトを星野監督(当時)は「何でこんなの獲ってきたんや!」と罵倒し、灰皿を投げつけたことがある。驚いた荒木は契約金を返還した。
このような経緯からか、取材で「ドラフト1位入団」といわれても「僕は偽者のドラフト1位」「実質は3位以下ですよ」と自虐的に答えることも多い。
落合監督は、荒木を「世界ナンバーワンのセカンド」と評した[9]。
元チームメイトだった阪神タイガースの矢野輝弘とは親しく、2008年北京オリンピックに出場した際や、試合前などに親しく話をしているところが観察されている。

広 告 ← こちらをクリック


個人記録
初出場/初打席:1997年5月31日、ヤクルト戦(千葉) 鳥越に代わり遊撃に就く/9回山内の前に凡退
初安打:1997年6月11日、広島戦(広島) 高橋建から単打
初盗塁:1997年7月11日、阪神戦(ナゴヤD) 8回に二盗
初打点:1997年8月8日、巨人戦(東京D) 9回木田から適時打
初本塁打:2001年6月5日、巨人戦(東京D) 3回メイから2ラン


タイトル・表彰・記録
ベストナイン:3回(2004年 - 2006年)
盗塁王:1回(2007年)
ゴールデングラブ賞:4回(2004年 - 2007年)
スピードアップ賞:1回(2005年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回(2007年)
シーズン1試合4安打:9回(2004年)※日本記録。
シーズン913守備機会(2005年)※二塁手としての日本記録。
シーズン496補殺(2005年)※二塁手としての日本記録。
シーズン623打数(2005年)※セ・リーグ記録。
オールスターゲーム出場:3回(2004年、2005年、2008年)
オールスターゲームMVP:1回(2008年第2戦)

  1. ^ 元タレントの荒木定虎 から。
  2. ^ この頃、中日はチームの柱、立浪の後継者と成り得る選手を次々と獲得していた。
  3. ^ 広島グレッグ・ラロッカ と得票数が同数で両者受賞した。
  4. ^ 欠場中の二塁には4年目の森岡良介 が起用されたが結果を出せずに降格。かわって骨折で出遅れていた森野将彦 や、日本ハム より緊急に金銭トレードで獲得した奈良原浩 が二塁を守った。
  5. ^ 短い距離を強く投げる内野より、長い距離を投げる外野の方が、比較的体への負担は小さいと言われる。
  6. ^ ゴールデングラブ賞は記者投票で決められるため、記者の印象・記者個人の基準(選手の好き嫌い等)に左右されることが少なくない。
  7. ^ 中日球団選手の同タイトル獲得は平野謙 以来21年ぶり。
  8. ^ 歴代では2位タイ。
  9. ^ 竜・荒木にバント!五輪組“ピリピリ”祭り(SANSPO.COM)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 →


荒木雅博オフィシャルサイト


広 告 ← こちらをクリック