新垣渚 | ☆大 辞 典☆

新垣渚

新垣 渚(あらかき なぎさ、1980年5月9日 - )は福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手。

「渚」の字は旧字体(渚、「日」の右上に点がつく)が正しいが、この字がJIS第1・第2水準漢字に含まれていないことから、ウェブサイトをはじめとして略字表記のほうが通行していることが多い。→


プレイスタイル・特筆
長身で投げ下ろすオーバースローから150km/h超(最速155㎞/h)のストレートと縦横のスライダーを投げ分ける。特に縦スライダーのキレは球界随一とされ、「バニッシュボール(vanish 消える)」とも称される。[1][2]他にカーブ、シュート、ツーシーム、カットボールも用いる。

試合終盤にも150km/hオーバーをマークするスタミナも武器だが、課題は後述の通り制球力。山崎武司曰く、「今まで対戦してきた中で最高のスライダーを投げるピッチャー。彼は強引にスライダーを曲げてくるので暴投が多いが、決めることができれば、伊藤智仁投手や斎藤雅樹投手よりもすごいスライダーを投げる。潜在能力をすべて出し切っていない」とのこと。

斉藤和巳、和田毅、杉内俊哉とともにホークス投手の四本柱と呼ばれる。


来歴
1998年、沖縄水産高の投手として春、夏連続で甲子園出場を果たし、横浜高の松坂大輔とともにマスコミの注目を集めた。高校野球全国大会史上初の150km/hを記録したが、春夏ともに初戦敗退。夏は1学年下の大島裕行(埼玉栄高)に逆転ホームランを喫している。高校の同期にのちにホークスでも同僚となる稲嶺誉がいた。同年のドラフト会議ではオリックス・ブルーウェーブと福岡ダイエーホークスが1位指名し、オリックスが交渉権を獲得したが、新垣はダイエーへの入団を希望していたため交渉は難航。オリックスの三輪田勝利編成部長(スカウト)が新垣の実家を訪れるなどしたが拒否を貫いた。その後、三輪田勝利スカウトが飛び降り自殺をしたが、新垣はオリックスへの入団を断り九州共立大学へ進学した。

1999年、明治神宮野球大会大学の部で優勝。

2002年、この年のドラフト会議で自由獲得枠指名でダイエーに入団。→


プロ入り後
2003年、ルーキーながら先発に定着し7月末までに8勝を挙げるが、8月にくるぶしを痛め長期離脱。阪神タイガースとの日本シリーズでは救援で復帰した。また、この年シーズンオフの契約更改で新人としては異例の保留をして話題となった。

2004年は先発の軸としてチーム最多の11勝をマークし、チームのレギュラーシーズン1位通過に貢献した。177奪三振で初のタイトルとなるパ・リーグ最多奪三振受賞。

2005年には10勝を挙げ、2年連続の2桁勝利を達成。

2006年には自己最多の13勝を挙げ、3年連続の2桁勝利を達成。9月29日に虫垂炎による急性腸炎により入院、プレーオフ第2ステージではベンチ入りしたが登板機会はなかった。

2007年は直球とスライダーを生かすためにシュートを習得。オープン戦では好投するものの公式戦が始まると暴投を連発。あまりにも暴投が多いためスポーツ紙などで「暴投王」と称されることもあり、王監督まで「暴投王」と発言した[3]。以下、同年シーズンの暴投に関する主な記録。

4月17日東北楽天ゴールデンイーグルス戦(フルキャストスタジアム宮城)でプロ野球タイ記録となる1試合4暴投を記録。
5月11日千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)で暴投を2個記録し、シーズン暴投数13となり球団記録を更新(以前の記録はスタンカが1961年に記録した12)。
6月6日横浜ベイスターズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)でシーズン暴投数17となり、1990年に村田兆治、1996年に酒井弘樹が記録したパ・リーグ記録に並ぶ。
7月11日の楽天戦(北九州市民球場)で、1998年に石井一久が記録したプロ野球記録20に並ぶ(これは前半戦だけで石井の記録を抜いたことになる)。
7月17日の北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)で2暴投を記録し、シーズン最多暴投のプロ野球記録を更新。その後、怪我で戦線離脱したものの、復帰後も暴投を重ね25個の暴投を記録し、セ・パ両リーグあわせてのシーズン最多暴投を記録する事態となった。[4]。
2008年は昨シーズンオフより新球スラーブの習得と、力まない「7割投法」を目標に掲げ[5]、杉内俊哉と開幕投手を争うも、最終的に杉内に譲ることとなる。8月20日西武戦では、日本タイ記録の1イニング3暴投を含み、日本新の1試合5暴投を記録した。勝ち星が伴わず2軍落ちも経験したが、 8月28日のオリックス戦でようやく今季初勝利。2007年度から続いた暴投癖は2度目の1軍復帰以降は数が激減している。これについてはこれまで投げていたスラーブやフォーク、シュートなどを捨てて、ストレートとスライダーのみに投げる球種を絞る事と、2軍調整時に藤田学ピッチングコーチから「好調時と比較すると投球時の腕の位置が下がっている」と指摘されたため、腕の位置を矯正した事が大きいとインタビューなどで語っている。
しかし、シーズン通算で4勝は自己ワーストであり、ホークスの12年ぶりの最下位の要因の一つであった。


記録
初登板:2003年3月31日、対大阪近鉄1回戦(大阪ドーム)、先発して6回2死まで5失点で敗戦投手
初奪三振:同上、3回裏にタフィ・ローズから
初勝利:2003年4月15日、対千葉ロッテ5回戦(千葉マリンスタジアム)、先発して1失点完投勝利
初完投勝利:同上
初完封勝利:2003年6月8日、対日本ハムファイターズ15回戦(東京ドーム)
シーズン25暴投(日本記録):2007年
1イニング3暴投(日本タイ記録):2008年8月20日、対埼玉西武18回戦(西武ドーム)
1試合5暴投(日本記録):同上


タイトル・表彰など
最多奪三振:1回(2004年)
月間MVP:5回 (2003年7月度、2004年7月度、2005年9月度、2006年3・4月度)
4シーズン連続受賞はパ・リーグの投手としては史上初。
JA全農Go・Go賞
「最多奪三振賞」 (King of K) (2007年5月度)

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家族・エピソード
父方の祖父がアメリカ出身なので、本人はクォーターである。
あだ名、もしくはキャッチフレーズは「なんくる渚」。出身の沖縄方言「なんくるないさ(なんてことないよ)」に掛けたもの[1]。
幼稚園時代は『キャプテン翼』の影響でサッカーをしていたが、小学校2年生のときに兄の影響で野球を始めた。当初は同世代より一回り長身である体格を見込まれキャッチャーを任されていたが、相次ぐ脚の怪我(後述)により投手へ転向。
小学校時代の交通事故で右足に人工骨を埋める手術を受けて以降、右脚を3回、左脚を1回骨折した。特に那覇市立真和志中学校時代はほぼ3年間金属製のプレートを外せず、まともに走ることすらできなかった。そのため中学限りで野球をやめ、実兄も在籍した興南高等学校ボクシング部へ進学・入部する段取りを進めていたが、書類上の不備により興南高を受験できなくなり、沖縄水産高へ進学し野球を続けた。今もたびたびボクシングの試合観戦もしていることを本人が認めている。
2006年、一部ネット掲示板およびマスコミの報道でモデルの押切もえとの交際が囁かれた。しかし同年9月イベントの席上押切が交際を真っ向から否定する旨の発言をした。なお、同郷である沖縄アクターズスクール出身の複数の女性芸能人と年来の交友があることは認めている。特に元SPEEDのメンバーhiro(島袋寛子)とは幼馴染。
涙もろい。1998年のドラフト会議でオリックスが交渉権を得たときは無念さのあまり涙を流した。2002年にダイエーへの入団が決定したとき、及び2003年の千葉ロッテマリーンズ戦でプロ初勝利を完投で挙げたとき、2008年8月28日に復活の一勝を挙げたときも感極まって涙を流した。「泣き虫王子」とチームメイトに呼ばれている。
大学時代の2年先輩に山村路直、1年先輩に田上秀則、1年後輩に馬原孝浩、2年後輩に高橋秀聡がいる。


出囃子(テーマソング)
BEGIN「島人ぬ宝」


書籍
渚 NAGISA (2007年5月11日、講談社) ISBN 978-4062139687
ビジュアルノンフィクション。写真はスエイシナオヨシ撮影。


CM
フタタ 『プライス真っ二つ編』
四季工房 『ベストを尽くす編』 『子供の頃から編』


  1. ^ アメーバニュース2007年6月15日記事
  2. ^ 週刊ベースボール 2004年6/7号記事
  3. ^ nikkansports.com 「王語録」 2007年5月31日
  4. ^ 日本プロ野球機構オフィシャルサイト 歴代最高記録 暴投
  5. ^ 西日本スポーツ 2008/02/12記事


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 →


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