新井宏昌 | ☆大 辞 典☆

新井宏昌

新井 宏昌(あらい ひろまさ、1952年4月26日 - )は、元プロ野球選手(外野手)。現在は福岡ソフトバンクホークスの打撃コーチ。旧名:新井 鐘律(あらい かねのり)。

現役時代は巧みなバットコントロールによる状況に応じたシュアなバッティングが特徴で、300犠打をマークするなどチームプレーでも欠かせない存在感を示した。現役引退後は評論家・コーチとして活動し、コーチとしての手腕は高く評価されている。→


来歴・人物
PL学園を経て法大で活躍。法大では、江川卓らが1年生のときの4年生にあたる。

1974年、ドラフト2位で野村克也監督の南海ホークスに入団し、1年目から1軍に定着。1979年には打率.358を記録するが惜しくも首位打者には届かなかった。1981年、1982年にも2年連続3割を記録。その打撃技術の高さにはロッテオリオンズで活躍していた落合博満も一目置いていた。

1985年オフ、山口哲治投手との交換トレードで近鉄バファローズに移籍。新井は年齢的に限界であるという南海フロントの判断が、トレードの要因となった。しかし、1987年には初の首位打者に輝くなど大活躍し、近鉄側から見れば大成功のトレードとなった。当時の中西太打撃コーチや、読売ジャイアンツから移籍したベテラン左打者淡口憲治らとの出会いがきっかけでバッティング理論をより深く究めたことが、活躍の背景にあった。

1987年の首位打者獲得時には打率.366で、安打数184本を記録。この安打数は、130試合制における当時の日本記録であった。その後も毎年安定した成績を残し、1989年は2番打者としてチームのリーグ優勝に貢献。この優勝は新井にとってプロ生活14年目にして初めての経験であった。新井は、盗塁王の常連で一番打者である大石大二郎の後を打ち、バントや巧打でラルフ・ブライアント、鈴木貴久、金村義明、村上隆行といった強打者につなげる貴重な役目を果たした。

1992年、2000本安打を達成。同年、衰えを理由に40歳で引退した。地味ながらもそのつなぎ役としての能力の高さから、近鉄史上最高の2番打者と称えるファンも多い。

引退後は野球解説者を経て、1994年、近鉄移籍時のコーチだった仰木彬監督に請われてオリックスの打撃コーチに就任(2001年まで)。イチローを球界を代表する打者へと育成した。それまで「鈴木一朗」だった登録名を「イチロー」と変更するように考案したのは、アイデアマンとして知られる仰木ではなく新井であるという[要出典]。

2002年NHK解説者・デイリースポーツ評論家を経て、2003年からは2年間は古巣のダイエーで王貞治監督のもと打撃コーチを務めた。打撃が低迷していた村松有人に対してレベルスイングの指導を行い、初の3割を記録させるなどの辣腕を発揮した。ダイハード打線と呼ばれる強力打線はチーム打率.297の新記録を打ち立てるなど、日本一の立役者となる。

2005年からは仰木に請われてオリックスでチーフ兼打撃コーチを務めるが、2006年シーズン終了後成績不振の責任を取る形で辞任。2007年~2008年に再び古巣ソフトバンクの打撃コーチを務めた。


通算打撃成績
実働年数 18年
試合 2076(歴代25位)
7011打数(歴代30位)
2038安打(歴代28位)
打率.291(歴代30位)
得点 933(歴代40位)
二塁打 338(歴代30位)
三塁打 65(歴代14位)
本塁打 88
塁打 2770(歴代51位)
打点 680(歴代92位)
盗塁 165(歴代89位)
四死球 585(歴代85位)
犠打 300(歴代4位)
三振 422
2000本安打を達成した中で100本塁打に達していない唯一の選手。


タイトル・表彰
首位打者:1回(1987年)
最多安打:1回(1987年 ※当時は表彰項目ではなかった)
ベストナイン:4回(1979年、1982年、1986年、1987年 外野手)
ゴールデングラブ賞:1回(1987年 外野手)
日本シリーズ敢闘賞(1989年)


背番号
6(1975年~1985年)
9(1986年~1992年)
69(1994年~2001年、2005年~)
81(2003年~2004年)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 →


広 告 ← こちらをクリック